日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

六義園・和歌の世界に浸る庭園---東京都文京区

2012-04-09 | 日本庭園

六義園(りくぎえん)もまた、東京に残る代表的な大名庭園の一つです。前記の「小石川後楽園」が、中国趣味の庭であるのに対し、こちらは純和風趣味。和歌にちなむ名所で、景色を創っています。

 

(上: 雅趣に富んだ景が満載の六義園)

六義園は、これまた有名な柳沢吉保の庭園です。五代将軍綱吉の側用人であった吉保が、綱吉からこの地を賜り、7年の歳月をかけ、元禄15年(1702)に完成させたとあります。この年は、奇しくも、かの赤穂浪士討ち入りの年。

面積87,000平方メートルの庭園は池泉回遊式。園名は、和歌の分類の六体(六義)に由来し、園内の88ヶ所に、和歌に基づく景色を再現したということです。「玉藻の磯」「出汐の湊」「妹山・背山」「渡月橋」などなど。

(上: 広大な池と蓬莱島)

上の写真は、この庭園で最も有名な景。庭園の中央を占める大きな池と「蓬莱島」です。神仙思想に由来する蓬莱島は、日本庭園にしばしば見られる構成要素ですが、ここではアーチ形の「洞窟石」が特徴的です。

和歌には松を題材にしたものも多いので、ここでも見事な松の景が目を引きます。

(上: 枝振りの良い松が、風雅な景色を創っている) 

全体的に、明るく伸びやかな庭園ですが、池の南端は深山幽谷の景。「滝見の茶屋」を中心に、滝や渓流で構成されています。

(上: 水分石のある滝石組)

(上: 滝から始まる渓流の景)

(上: 滝見茶屋とその周辺)

(上: ユニークな渓流の石組)

(上: 渓流から池方面を望む)

池の北端には、園内で一番高い築山「藤代峠」があります。紀州にある同名の峠から名付けられたとか。標高35メートルと言うように、かなりの高さで、そこからの眺めも必見です。

(上: 藤代峠から眺める)

そして、藤代峠のある中島にかかる橋の一つが「渡月橋」。「和歌のうら 芦辺の田鶴の鳴声に 夜『わたる月』の 影そさひしき」という歌から名付けられたそうです。二枚の巨石による石橋が、ダイナミックな景観を演出。

(上: 渡月橋。巨大な石橋が景色を引き締めている)

そして最後は桜。都内の多くの大名庭園同様、六義園もまた、シダレザクラの大木をはじめ、サクラが見事です。下の写真は、ちょっと最盛期を過ぎたものですが・・・。

後日談として、柳沢吉保の六義園は、明治時代に入り、三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸となり、彌太郎と二代目彌之助により修復され、往時の景観に復元された。そして、昭和13年、岩崎家より東京市(都)に寄付され、昭和28年に国の特別名勝に指定されたと、案内にあります。

 


小石川後楽園・名所の景を散りばめた庭園---東京都文京区

2012-04-06 | 日本庭園

江戸は世界有数の庭園都市と言われましたが、今でも、その名残が東京のあちこちに残っています。中でも「小石川後楽園」は、往時の姿をよく留めた大名庭園の一つとして、特別史跡と特別名勝に指定されています。

(上: 庭園に巡らされた築地塀と、刻印のあ る石垣)

この庭園は、案内によれば、江戸初期の寛永年間(1629)、水戸徳川家の祖である頼房公が、その中屋敷(後に上屋敷)に造り、二代藩主のご存じ光圀公が完成させたとあります。

(上: 大名庭園は華やかさがウリ)

園名は、「天下の人の楽しみに『後(おく)』れて『楽』しむ」という中国の名言に由来するそうです。

江戸時代の大名庭園は、いわばテーマパークの趣があり、大きな池を中心に、各地の名所旧跡を模した景色を、園内の所々に配した構成。小石川後楽園も、その例にもれません。

(上: 広大な池と蓬莱島)

面積約7万平方メートルの池泉回遊式庭園で、中央の大きな池は琵琶湖を模したと言われ、池の中に「蓬莱島」や「竹生島」があります。 

(上: 蓬莱島、別名「亀島」)

蓬莱島は、またの名を「亀島」と言います。島の構成が、亀が蓬莱島を背負っている様子を表したもので、とても、縁起の良い様を表しています。亀の頭に据えられた巨大な鏡石は、庭師・徳大寺佐兵衛にちなんで「徳大寺石」と命名されています。

(上: 亀の頭の巨大な鏡石「徳大寺石」)

(上: よく見ると、なかなか手の込んだ構成の蓬莱島)

また、園路に沿っては「白糸の滝」や近江八景の一つである「唐崎の一つ松」あるいは「通天橋」「木曽川・寝覚滝」などが配され、目を楽しませます。

(上: 唐崎の一つ松)

 

(上: 通天橋)

(上: 寝覚滝)

ここまでは、定石通りの大名庭園ですが、小石川後楽園の特徴は、明の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)の意見を取り入れた中国趣が散見するところです。

朱舜水は、明からの亡命者であり、光圀が水戸藩の招き厚遇し、傾倒した人物です。そこで、この庭園には、「廬山(ろざん)」や「西湖堤」など、中国の名所に想を得た景色も見られます。

上の写真は、ブンゴザサで覆われた築山「小廬山」。姿形が中国の廬山に似ているところから、江戸の儒学者・林羅山によって名付けられたとか。山頂から庭園を見渡すことができます。

(上: 「西湖堤」の景)

そして、この庭園の景の目玉の一つが下の写真の「円月橋」です。朱舜水の設計と言われ、水面に映る姿が満月のように見えることから、この名がついたそうです。

 (上: 発想がすばらしい円月橋)

 

 (上: 円月橋は石積みも見事)

 

 園の東南、昔の正門に隣接してある「内庭」は、水戸藩の時代に書院の庭があったところで、昔の姿を留めていると言われています。(下の写真)

しかし、すぐ隣に位置する東京ドームが、景観を大きく損ねていて残念。

都心にいることを忘れさせるほどの、深山幽谷の景あり、稲田などの田園風景あり、変化のある景色を楽しめる小石川後楽園です。また桜も多く、花の季節はとても華やか。

 

 


鶴亀の庭=芬陀院庭園---京都

2012-04-02 | 日本庭園

長寿の象徴「鶴」と「亀」を構成要素にした日本庭園は、数多くありますが、この芬陀院(ふんだいん)庭園は、その代表的庭園の1つです。(下の写真)

芬陀院は、東福寺の塔頭の1つで、寺伝によれば、鎌倉時代末期(1321-1324)に、時の関白・一条内経により創建。以来、今日まで、一条家の菩提所となっているとあります。

庭園は、室町時代中期(1460-1468)、あの有名な画聖・雪舟によって作庭されたと伝わる枯山水庭園です。

(上: 白砂と苔と石組の枯山水)

古庭園の作庭には、資料が少なく、「伝・誰それ」と伝わる庭でも、実際は異なる場合も多いのですが、芬陀院庭園に関しては、雪舟が本山・東福寺に参拝した際には、必ずこの芬陀院に宿泊したと言われており、そのあたりも、伝承の根拠となっているようです。

その後この庭は、江戸時代における2度の火災と、長い年月の経過により、一部荒廃していたのを、昭和の前期に、造園の巨匠・重森三玲氏の修復により、原状を回復したとのこと。

南庭に組まれた鶴島と亀島には、風格があります。

(上: 向かって左が鶴島、右が亀島)

一見、逆のように思えますが、左が鶴島、右が亀島です。亀島は、二重基壇の立体構成で、鶴島は、折り鶴を表しているとか。

 

* 東福寺には、重森三玲作の名園があります。興味のある方は、以前に書いた「重森三玲の造形革命」(2011年1月11日&1月14日)を読んでください。