日本庭園こぼれ話

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「海のある奈良」---若狭小浜・福井

2011-02-07 | 歴史を語る町並み

近年は、オバマ大統領の出現で、一躍脚光を浴びた福井県小浜市。そして今年は、NHK大河ドラマ『江』によって、再び注目されそうな予感。というのも、小浜は「江」の姉の「初」のゆかりの地だからです。

しかし、小浜の名は、もっとずっーと昔から、「海のシルクロード」の終着駅として歴史に刻まれてきました。

福井県の西部、若狭湾の懐深くに抱かれた小浜市。天然の良港に恵まれ、大陸と日本の都を結ぶ交通の要衝として栄えた町。その歴史は、今日この町に「海のある奈良」と呼ぶにふさわしい豊富な文化遺産を残しています。

「海路は大陸に通じ、陸路は都に結ばれた」---海陸の要衝に位置づけられたこの地はまた、城下町としても発展しましたが、関ヶ原の合戦の後、最初に小浜城主となったのは、京極高次。そして高次の妻が、織田信長の妹・お市の方の三人娘の次女・初でした。

その後、家光の時代に、京極家に替わって小浜藩主となったのは、老中の一人・酒井忠勝。家康以来、徳川家の信頼が厚かった酒井家を藩主に据えたことで、この地が当時、幕府にとって非常に重要な位置を占めていたことが窺われます。

酒井家は代々、教育熱心だったそうで、小浜藩は多くの学者や文化人を輩出しましたが、その中の一人が『解体新書』の翻訳者として有名な杉田玄白です。銅像が駅近くの病院の前にありました。

現在の小浜には、城下町の面影はほとんど残っていませんが、市街地のはずれにある三丁(さんちょう)町では、小京都の名にふさわしい古い町並みを垣間みることができます。

(上: 風情のある三丁町)

「京は遠ても十八里」と言われたように、古来より、小浜と京都の交流は盛んで、小浜経由で京都に運ばれた物資は数多く、旅人の往来はまた、京文化を小浜に根付かせたようで、かつての郭(くるわ)街、三丁町の狭い路地の両側に軒を連ねる千本格子の家々は、京都の町並みを彷彿させるものです。

 三丁町から海沿いに歩いて行くと、海に張り出したテラスがあり、人魚像が置かれています。一見ロマンチックに見える人形像ですが、それは悲しい「八百比丘尼(はっぴゃくびくに)」伝説に由来するものでした。

(上: 「八百比丘尼」の悲話を伝える人魚像)

「昔、土地の高橋長者の娘が、異国の人から与えられた人魚の肉を食べてしまい、それ以来、娘は若い容姿のまま、何年経っても齢をとらなくなってしまった。120歳になった時、娘は不老不死の身を嘆き、尼となって全国を行脚し、数々の善行を行ったが、その後、ふるさとの小浜に戻り、洞窟に入って食を断ち入寂した。その時娘は800歳になっていたので、人々は<八百比丘尼>と呼ぶようになった」ということです。

比丘尼が入寂したと伝わる洞窟が、人魚像にほど近い、酒井家の菩提寺「空印(くういん)寺」の門前にあります。

街の中心地にある泉町のアーケード内は魚屋さんがいっぱい。ショーケースの中には新鮮な魚や海産物が並び、店先には串刺しのカレイの干物がスダレのようにぶらさがり、サバなど焼き魚の匂いが充満して、食欲を刺激される商店街です。

(上: 泉町アーケード。「鯖街道」はここから始まった)

昔、水揚げされた魚は、ここから京都まで運ばれたそうで、「鯖街道」と呼ばれたルートの起点でもあります。

次回は、若狭の古刹めぐりをご紹介します。

---つづく---

※ 掲載写真は、1998年に撮ったものです。

 

 

 

 


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