日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

Ise Jingu---Mie Prefecture

2011-03-30 | ...and all the others

Although Ise Jingu (伊勢神宮) is very popular as a spiritual place these days, it has always been a sacred place in Japan since ancient times.

Ise Jingu in Mie Prefecture is one of the most ancient and important shrines in Japan. The origin dates back to two thousand years ago; the history appears in Japanese mythology, "Nihon Shoki" .

The two main buildings of Ise Jingu are the Inner Shrine (内宮) and the Outer Shrine (外宮).

 The object of worship of the Inner Shrine is the sun deity (天照大御神) who is believed to bring bountiful harvests.

Five hundred years later, the Outer Shrine was built making a pair with the Inner Shrine. Enshrined here is the deity of food.

Ise Jingu consists of these two shrines and 123 other affiliated shrines; they stand surrounded by a deep forest.

The architectural style of Ise Jingu is unique. It is said that the buildings are modeled after rice granaries in the Yayoi period when rice cultivation began in Japan.

So the buildings are simple and plain; they are made of unvarnished wood and the roofs are thatched.

These buildings have regularly been rebuilt once every 20 years since about 1300 years ago. It is called "Shikinen Sengu (式年遷宮)".

There are some reasons for the rebuilding: one reason is to keep the building looking good, and the other is to pass on the original style to coming generations, and moreover, it is believed that transferring the deities into the new hall restores the deities' power. 

 

The photo above is the Inner Shrine which was newly rebuilt for a Shikinen Sengu.

This is a picture from the special guide book of Ise Jingu. Usually the Inner Shrine and the Outer Shrine are surrounded by fences like the pictures below. So you can't see the whole buildings.

 

    

(Above left: The Inner Shrine/ Above right: The Outer Shrine)

---to be concluded


お伊勢参りは「外宮」から---三重県

2011-03-27 | 神社

伊勢神宮参拝は、「外宮(げぐう)」から「内宮(ないぐう)」へと詣でるのが正式ということ。近鉄およびJR伊勢市駅前から、直進する道路の突き当たりに広がる深い森が、外宮の神域で、バスなら2分、歩いても7~8分です。

車の往来が激しい幹線道路を横切って、一歩境内に入れば、そこは別世界。亭々と空に伸びる樹木の中を、ざくざくと玉砂利を踏みしめて奥に進むうちに、俗世界の垢が落ちていくような・・・。

天照大御神の食事を司る神・「豊受大御神」を祀る「外宮」の正殿(しょうでん)は、「唯一神明造り(ゆいいつしんめいづくり)」という、日本最古の様式を伝える建物。ヒノキの素木を用い、切妻、平入りの高床式。屋根は茅葺きで、柱は掘立(ほったて)。

屋根の両端には「千木(ちぎ)」が高く聳え、棟には「鰹木(かつおぎ)」が並んでいるというもので、弥生時代の高床式の穀倉が原型とされています。内宮も同じ様式ですが、屋根の千木の切り方と、鰹木の数が違うそうです。 (下は内宮の写真)

(上: 遷宮直前時の内宮=『伊勢二千年ものがたり』より)

そんな予備知識を仕入れて行ったにもかかわらず、正殿の前で、「あれれ?」の気分。社殿は木の垣や柵で幾重にも囲われて、屋根のほんの先端しか見えないのでした。

(上: 外宮=伊勢神宮パンフレットより)

文字通りの「垣間見る」状態。その上、垣の内側は撮影禁止で、傍らにガードマンが立っている物々(ものもの)しさ。さすが別格の神宮です。

ちなみに伊勢神宮の正式名称は単に「神宮」というのだそうです。そこへお参りすることは「参宮」と言い、一般の神社の「参拝」とは、言葉を使い分けていた時代もあったとか。

外宮神域は、正宮の他、鎌倉時代に、蒙古の襲来を神風で撃退した功績により、末社から別宮に昇格したと伝わる「風宮」をはじめ、別宮三社と摂社、末社など十社が点在し、厳かな雰囲気で満たされています。

 

 


伊勢神宮のルーツ---三重県

2011-03-23 | 神社

伊勢神宮は、最近、「パワースポット」として大人気ですが、今さら?の感が無くもありません。何故なら、伊勢神宮は、神代の昔から、日本のパワースポットだったのですから・・・。

伊勢神宮のルーツを辿れば、神武天皇の日本建国から、数百年を経た第10代崇神天皇の時代。

天皇は神を祀る「祭(まつりごと)」と、国を治める「政(まつりごと)」を分けることを決意され、それまで皇居内に祀っていた、皇室の祖先神である「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」と、大和の国の地主神である「倭大国魂神(やまとのおおくにたま)」の2神を、皇居より離し、それぞれを神聖な土地に祀らせることにしたということ。

後に、天照大御神を託された皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)は、大御神の永遠の鎮座の地を求めて旅に出て、各地を巡幸した後に、辿り着いたのが伊勢。このいきさつに関する最も古い記述は『日本書紀』にあり、天照大御神が「伊勢は常世(理想郷)」から波が寄せる誠に美しいところ。故にこの国に鎮座したい」と、倭姫に告げられたそうです。

(上: 皇大神宮「内宮」=伊勢神宮パンフレットより)

これはつまり、東国に勢力を延ばそうとしていた大和朝廷にとって、伊勢地方は、前進基地であり、海上交通の拠点であったからという興味深い説もありますが、ともかくも、伊勢神宮2,000年の歴史は、こうして始まります。

それから、500年後の雄略天皇の時代には、天照大御神の食事を司る神として、豊受大御神(とようけおおみかみ)が、丹波の国から迎えられ、天照大御神を祀る「内宮(ないぐう)」に対し、こちらは「外宮(げぐう)」と呼ばれています。

(上: 豊受大神宮「外宮」=聳える大樹と清浄な空間が俗世を忘れさせる)

さらにその規模は次第に拡大され、現在の伊勢神宮は、内宮、外宮の両正宮を中心に、別宮14社、他に摂社、末社、所管社があり、合わせると125社にもなるという日本一のビッグファミリー神社なのだとか。

(参考文献=伊勢文化社刊『伊勢二千年ものがたり』)


柴屋寺庭園---静岡市

2011-03-19 | 日本庭園

柴屋寺への道すがら、前方に、まるで一幅の絵から抜け出たような山が姿を現します。その名は、いかにも山容にふさわしく「天柱山」。柴屋寺の山号にもなっている山です。

(上: 形の良い山容が印象的な天柱山)

柴屋寺の正式名称は、「天柱山吐月峰柴屋寺(てんちゅうざんとげっぽうさいおくじ)」と言います。ここは、室町時代中期の永正元年(1504)、今川氏に仕えた連歌師・柴屋軒宗長が、当時は丸子城の一部であったこの地に、草庵を結び余生を送ったところ。

庭園は宗長自らの作庭と伝わり、湧水が流れを作り、池に注ぐという景を中心に、石と刈込みを要所に配した侘びた庭です。昭和11年という比較的早い時期に、国の名勝と史跡に指定されています。

(上: 連歌師宗長が思いを込めた風雅の庭)

西に天柱山、南に丸子富士を眺める借景庭園と言われていますが、園内の樹木が生長した今では、かろうじて天柱山の先端が垣間見えるといったところ。(下の写真は数年前のものですが・・・)

庭は京都・嵯峨野から移植したという竹林に囲まれていて、庭の奥の月見石に座っていると、竹林が「名月を吐き出す」ように見えるところから「吐月峰」の名が付いたとか。

そのドラマチックな情景を思い描くだけでも、柴屋寺の庭園には、月の名所としての付加価値をつけることができそう。その意味でも「風雅」という言葉がよく似合う庭園です。

柴屋寺へのアクセスは、JR静岡駅よりバス25分、「吐月峰」下車、徒歩8分。隣の「丸子橋入口」で下りると、そこは江戸時代、東海道の宿場町として賑わった丸子(まりこ)宿があったところ。

当時は特産の自然薯を使った、「とろろ汁」を出す茶屋が10数軒並んでいたそうですが、今その町並みはなく、広重の『東海道五十三次』の「丸子・名物茶屋」のモデルと伝わる「丁字屋」が、唯一、その雰囲気をとどめて、大人気。

アクセスについては、少し古い情報なので、お出かけの際は、改めてご確認ください。

 

 


龍華寺庭園---静岡市

2011-03-14 | 日本庭園

JR東海道線清水駅からバスで南に10分少々。静岡市清水区にある龍華寺(りゅうげじ)の庭園は、個性的な構成を持つ庭です。龍華寺の開創は、江戸時代初期。富士山が好きで、富士の研究をしていた日近上人が、この地から望む富士山の姿がもっとも荘厳であるとして、甲州身延の本遠寺から、この地に移って来たと寺伝にあります。

日近上人を崇敬した東山天皇は、この寺を皇室の祈願寺と定め、「観富山龍華寺」と命名。さらに徳川家との縁も深く、本堂と庭園は、紀伊頼宣、水戸頼房二卿の寄進により、天下の名匠を集め、10数年の年月を費やして完成したということです。

山門をくぐり、ジグザグを斜面を上って本堂前。茅葺きの屋根が見事な本堂の佇まいです。そこで目を引くのは、巨大なソテツとサボテンですが、それについては後述するとして、まずは主庭の「観富園」。

(上: 富士山を模して造られたというだけに、ボリュームとラインが見事な本堂の茅葺き屋根)

庭園は、日近上人自らの構想によるものとされ、この地から駿河湾を隔てて富士山を望む絶景を縮図したもの。斜面にある庭園の手前には、駿河湾に見立てた池を配し、築山は背後の有度山を形どって須弥山とし、さらには、茅葺きの本堂の屋根を富士山に見立てるというユニークな発想の庭です。

(上: 眼前に展開する風景の縮図を庭に表現した庭園。樹齢を重ねた枝振りの良い松が景趣を添えている)

その醍醐味は、石段を上って築山のてっぺんに辿り着いた時に納得。見下ろせば、庭園の全景が広がり、眼前の茅葺きの「富士山」に並んで、実物の富士山が、遠くの空に美しく雄大な姿を見せています。まさしく「観富園」、富士を観る庭園なのでした。

(上: 虚と実の富士山が並ぶ景=拝観券より)

そして先程のソテツとサボテン。ソテツは、紀伊頼宣、水戸頼房公によって、開山の折に中国から移植されたもので、推定樹齢が1100年、根回り6メートル、枝数58本という「大蘇鉄」。国の天然記念物の指定を受けています。また、隣に植えられた雌株の方も推定樹齢が800年、根回り4メートルという巨大さで、これら2株で、ソテツ林のような景色を見せています。

(上: ソテツ林のように見えるが、これで1株)

ソテツとともに上海から移植されたと伝わる「大サボテン」は、推定年齢300年とあり、「仙人掌」の名にふさわしい古株で、これも天然記念物。根元が木化して、ウロコ状の表皮になっている様が、巨大トカゲを連想させます。

(上: 歳月を経て根元が木化した巨大なサボテン)

江戸初期にはサボテンの栽培が流行したそうですが、寒さに弱いため長持ちしなかったとか。ここのサボテンは「ウチワサボテン」という比較的寒さに強い種類とはいえ、地植えでよくここまで育ったもの。温暖な気候と富士山の眺めが最大に生かされた龍華寺の庭です。

※ 龍華寺公式HP: www.ryugeji.jp/