日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

比叡山坂本(下)=日本一古い神社・日吉大社~西教寺・・・(滋賀県大津市)(改編)

2020-11-27 | 歴史を語る町並み

坂本の里坊の並ぶ道の突き当たり、鬱蒼とした木立ちの中に日吉大社があります。

(上: 西本宮の朱塗りの楼門=重文)

大社の伝えによれば、神代の昔から比叡山に鎮座する地主神を祀った日吉大社は、全国に3,800余社の分霊社がある総本宮。『古事記』の神代巻に登場する、日本で最も古い神社だそうです。

神域は40万平方メートルと言われ、その広大な巨木の森の中に、108社という多くの神々が祀られているとのこと。

国宝、重要文化財の建造物も多く、東本宮と西本宮、2つの本殿がともに国宝。その他、社殿17棟と神輿7基が重要文化財に指定されています。

(上: 東本宮本殿=国宝)

また、境内を流れる大宮川の清流に架けられた3つの石橋は、豊臣秀吉の寄進と伝わり、それらも重要文化財。大勢の参拝客のざわめきさえも吸収してしまうような、清澄な空気が境内を満たしています。

上の写真は重要文化財の石橋の1つですが、橋もさることながら、川床に敷かれた舗石が素晴らしい。

日吉大社の近くには、比叡山行きのケーブルカーの駅があり、比叡山上延暦寺駅まで、2,025メートルを11分で結んでいます。この距離は、ケーブルカーとしては日本一長いそうで、車窓に迫ってくる琵琶湖が雄大。

日吉大社の裏手から西教寺に続く小径は、琵琶湖が遠くに光る、「山の辺の道」と名付けられた、丘の上ののどかな道。(奈良の他にも「山の辺の道」があるんですね)

途中には、比叡山の僧たちが論議を行ったという八講堂跡があり、その名も「千体地蔵」という、おびただしい数の石仏が並んでいます。10分ほど歩くと、西教寺。

西教寺は、聖徳太子により創建されたという古刹で、以来、衰退と隆盛を繰り返しながら、室町時代に再興され、不断念仏の道場となります。その後、信長の叡山焼き討ちで災禍をこうむりますが、復興に尽力したのが、その直後に築城された坂本城に、城主となってやって来た明智光秀だったとか。諸行無常の歴史を秘めたその寺は、今、山の懐の静寂の中にあります。

(上: 豪壮な建築美の中にも、軽やかさを感じる本堂)

丈六の阿弥陀如来像を安置する本堂は、総欅入母屋造りの豪壮な江戸時代の建築。その隣にある柿葺き(こけらぶき)の客殿は、豊臣秀吉の伏見城の旧殿を移築したということで、狩野派の襖絵や障壁画など、少々、色褪せているものの、往時の豪華さが伝わってきます。どちらの建物も重要文化財です。

客殿には、これもまた小堀遠州作と伝わる庭園がありますが、たとえそうであったとしても、その後に、いろいろ手が加わっているのではないでしょうか

(上: 客殿庭園)

境内には、明智光秀とその一族の墓もあり、光秀の非業の人生を偲ばせる、何かもの悲しい雰囲気もある西教寺です。

ーー終わりーー

 

 

 

 

 

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比叡山坂本(上)=石工集団・穴太衆と里坊庭園----(滋賀県大津市)(改編)

2020-11-20 | 歴史を語る町並み

琵琶湖の南西岸、比叡山の麓に位置する大津市坂本は、その昔「三塔十六谷、三千坊」と言われるほど権勢のあった比叡山延暦寺の門前町として発展した町です。戦国時代、織田信長による比叡山焼き討ちという、歴史の猛威にさらされながらも、かつての栄華を偲ばせる歴史遺産が随所に残り、しっとりと落ち着いた、たたずまいを見せています。(重要伝統的建造物群保存地区指定)

坂本は町の西端に、全国の日吉神社の総本宮である日吉大社が鎮座し、その広く長い参道が、そのまま町を東西に走るメインストリートになっていて、その参道の両側に、石垣で囲まれた「里坊」と呼ばれる塔頭が並んでいます。「里坊」とは、比叡山で修業を積んだ僧侶たちの「隠居坊」のことで、坂本には50余の里坊があるそうです。

坂本に積まれた石垣は、「穴太衆積み(あのうしゅうづみ)」と呼ばれるもの。古来より坂本の「穴太」地区に居住し、比叡山の土木御用を務めていた石工集団・穴太衆による石積み技法です。加工しない自然のままの石を巧みに用いて美しい石積みが構成されています。

(下: 旧白毫院の石窟の石積み)

坂本の町景観の特色は、この穴太衆積みの石垣によって形成され、特に滋賀院門跡と日吉神社の参道の周辺で、その代表的遺構を見ることができます。

(下: 滋賀院門跡外周の石積み)

自然石の石積みは、切石のものより重圧感が少なく、温かい感じ。古いものには苔や草が生え、石積みの表情は、年月を重ねて、ますます滋味を増すかのようです。

 

坂本に点在する「里坊」は、延暦寺の老僧の隠居所であったもので、寺院というより、住まいの性格が強く、立派な庭園を持つものも少なくありません。

最初に訪れた「滋賀院門跡」は、元和元年(1615)、天海大僧正が、後陽成上皇より御殿一宇を下賜され、京都の法勝寺を移転再興したもので、天台座主代々の御座所であったところから、御殿のような豪壮さと、雅びな雰囲気を兼ね備えています。

外周を「穴太衆積み」の石垣の上に白漆喰壁を組み合わせた土塀で囲まれた滋賀院門跡は、約1万平方メートルの敷地内に、御成門、内仏殿、宸殿、二階書院など、格式を物語る建物が並び、客殿を飾る狩野派の障壁画も見事です。

上は宸殿前にある、小堀遠州作と伝わる庭園。細長い池の対岸に、石組と植栽で蓬莱山(古代中国の神仙思想に基づく霊山の1つ)を表し、切石の橋を架けた池泉観賞式庭園です。意匠的に、少々ごちゃごちゃしているのが気になりますが、すっきり感のある切石橋が全体を引き締めています。このあたりが小堀遠州作と伝わる所以でしょうか。

(* 小堀遠州は、作庭家としても、日本の庭園史上もっとも重要な人物の一人で、「伝・小堀遠州作」の庭園は全国各地に、実にたくさんあります。ただし、それら全部が遠州作かというと、時間的にも不可能であり、真偽不明あるいは、後世に手が加えられた庭も多数存在します。)

次に訪ねたのは、「旧竹林院」。天正年間に建立された竹林院は、格式の高い里坊であったらしく、その昔、秀吉や家康も度々ここを訪れて、茶の湯を楽しんだと言われています。

八王子山を借景とした3,300平方メートルの庭園は、起伏のある地形を巧みに利用しながら、日吉大社の清流を引き込んで、緩やかな流れをめぐらし、中央に滝を配した回遊式。地表を覆った緑の苔が鮮やか。前面の芝生が明るい雰囲気をつくり、のびやかで気持ちのいい庭です。(下の写真)

また、庭園内にある「天の川席」と呼ばれる茅葺き入母屋造りの茶室は、出入り口が2つあり、主人の両脇に客が並ぶという、珍しい様式のものだそうです。

坂本には、この他にも、多くの里坊庭園があり、そのうち10庭が名勝庭園の指定を受けていますが、一般公開されているのは、上記の滋賀院門跡庭園と旧竹林院庭園、それと旧白毫院庭園(現在は料亭・芙蓉園=江戸時代初期の池泉回遊式庭園)の3庭だけです。

それ以外は基本的に非公開ですが、部分公開、特別予約公開、あるいは観光協会の主催で、主に春から初夏にかけて、「非公開社寺・庭園めぐり」が企画されることがあります。

(上:開門されていて、外から垣間見られる庭園も・・・

 

ーーつづくーー 

 

 

 

 

 


越前大野・・・福井県(改編)

2020-11-13 | 歴史を語る町並み

戦国武将の庭としてご紹介した「一乗谷朝倉氏遺跡」の最寄り駅は、JR福井駅からの越美北線一乗谷駅でした。そして、そこからさらに30分ほど、ゴトゴト揺られて着いたのが、越前大野駅。

織田信長との戦いに敗れた朝倉義景は、ここ大野まで逃げのびてきたところを、支族の朝倉景鏡の反逆にあい、宿舎の六坊賢松寺で自害したということ。少し前に見てきた朝倉氏の栄華の跡を思い出せば、栄枯盛衰を繰り返す歴史のドラマが去来するのでした。

(上: 越前大野の町の中に、ひっそりとある朝倉義景の墓所)

越前の朝倉氏を滅亡させた織田信長は、天正3年(1575)、大野郡における一向一揆を、金森長近らに命じ平定させます。この地の領主となった金森氏は、翌年より城と城下町の建設に着手。それが今日、「北陸の小京都」と呼ばれる越前大野の始まりです。

ちなみに、金森長近は後に飛騨高山に転封となり、高山城と高山の城下町を築いています。

東西に延びる六筋と、南北六筋が直交する碁盤目状の町並みを持つ大野市は、周囲を千数百メートルの山々に囲まれた盆地。市街地の西方、海抜250メートルの亀山の頂に、越前大野城があります。

(上: 大野城は山城。家並みの先の山頂にある)

お城へは、遊歩道が整っていますが、かなりの急坂。昔の人は毎朝の出勤(?)が、さぞ大変だったろうと思いました。現在の城は昭和に再建されたものですが、往時のまま遺されていたという野面積みの石垣に風格があり、全体的にも重厚な雰囲気を保っています。(下の写真)

眺めれば、周囲は山また山。すぐそばの里山から、遠くは白山連峰の山々まで、幾重にもなったその重なりが、様々な山肌のグラデーションを見せています。中でも大野盆地の南東に聳える荒島岳の姿は美しく、「大野富士」の別名があります。

大野の町並み散策は、大野城のある亀山を下ったところにある武家屋敷「旧内山家」から。内山家は、幕末期に大野藩政の改革と財政再建に尽力した家老・内山七郎右衛門と、弟の隆佐良隆の偉業を偲ぶため、後の内山家の屋敷を解体復元し、一般に公開しているものです。

黒板塀に囲まれた外観は、質素な感じですが、中は広く、明治15年頃の建築という母屋と、渡り廊下で繋がれた数寄屋造りの離れ、数棟の蔵などが、よく手入れされた庭園の中にあります。しっとりと落ち着いた雰囲気が気に入って思わぬ長居をしてしまいました。(下の写真)

近くに「平成大野屋」と名付けられた観光案内所がありますが、その名の由来は、この内山七郎衛右門が、藩財政の立て直しのために開設した藩営商店「大野屋」にあるということ。弟の隆佐もまた、洋式帆船「大野丸」を建造して、蝦夷地の開拓を推進するなど、山里の城下町の現在の静けさからは想像できない、エネルギーが噴出した時代があったことを知りました。

内山家から、町の中央、石畳の「七間通り」に入ると、両側には江戸や明治のたたずまいを見せる商家が軒を連ね、時間が一気に逆戻りしたような・・・。

ここでは、冬期を除く午前中に、名物の朝市が開かれています。この朝市は400年あまりの歴史をもつということで、つまり、城下町の始まりからずっとあったわけです。

(上: 400年の歴史を紡ぐ越前大野の朝市)

七間通りに連なる商家の軒を借りて、近隣の農家からの瑞々しい野菜や山の幸、漬物、色とりどりの花などがずらっと並び、絵になる光景のため、買い物客に混じって、写真を撮る人もずらりの、賑やかさです。

町の東は「寺町通り」。名前の通り、ここにはお寺がたくさん並んでいます。金森長近が城下町を建設した際に、城下を固める意味で、町の東端に寺院を集めた名残。花に囲まれた寺院、石像の並ぶ寺院、重厚な門構えの寺院などなど、中世から近世にかけての寺院が並ぶ、風情豊かな小径です。 

(上: 情緒豊かな寺町界隈)

名水の町として知られる大野は、地下水が豊富で、町のいたる所に湧水池があるとか。中でも、環境省名水100選の一つ、泉町の「御清水(おしょうず)」は、その中心的存在。古くは「お殿様のご用水」として使われた湧水は、今も、飲料水や生活用水として、人々の暮らしの中にあります。

(上: 御清水は名水の町・越前大野のシンボル)

「御清水」に隣接して、御清水会館という、くつろぎ感のある観光無料休憩所があるので、一休み。近くには、朝倉義景の墓所があります。

 

* ここに記載したのは、最新情報ではありません。詳細は、大野市公式HPなどでご確認ください。

 


当尾石仏の道 (浄瑠璃寺~岩船寺)・・・京都府木津川市(改編)

2020-11-07 | 古道

極楽浄土を庭園の中に再現しようとした浄土式庭園。毛越寺とともに、当時の姿をよく伝えているのが浄瑠璃寺庭園(特別名勝及び史跡)です。

寺名にある「浄瑠璃」とは、太陽の昇る東方にある浄土のこと。その教主が瑠璃光如来、つまり薬師如来で、一方、太陽の沈む西方浄土(極楽浄土)の教主が阿弥陀如来なのだそうです。

平安後期いわゆる藤原時代に創建されたこの寺は、浄土思想に基づき、寺域の東側に薬師如来を祀った三重塔、西側に阿弥陀如来を安置した阿弥陀堂を配し、間にはゆったりと池が横たわっているという、浄土式庭園の代表作として知られています。

上の写真は、阿弥陀堂前から「宝池」越しに三重塔を眺めたもの。前景の石燈籠、中景の池と中島、後景の三重塔が有機的につながっています。また下の写真に見るように、中島の先端は、『作庭記』にあるような、荒磯風の洲浜と石組で構成されています。

現在の浄瑠璃寺は、山里の静寂の中に佇む小さな古寺ですが、そこは文化財の宝庫。木の間越しに端整な姿を見せる三重塔(国宝)。そして池の対岸の阿弥陀堂(国宝)には、九体の黄金の阿弥陀如来像(国宝)が祀られています。藤原期の九体仏が揃っているのは、ここだけということ。横一列に並んだ阿弥陀如来像の荘厳に圧倒されます。

さらに秘仏とされる吉祥天女像(重文)は、ため息ものの美しさ。毎年、春と秋と1月の秘仏開扉の際に拝観できます。(現在、11月30日までご開帳)

浄瑠璃寺から岩船寺に至る道は、「当尾石仏の道」として知られる古道(全長約5㎞)のハイライト部分。約2キロほどのハイキングコースになっています。

「当尾」と書いて、「とうお」とも「とうのお」とも呼ばれる地名の由来は、鎌倉時代後半の文献に「塔尾」として登場するところから、「塔の連なる尾根」からついた名であるという説もあります。

かつて、この地に仏教文化が栄えたことを想像させる地名ですが、それを証明するかのように、この道筋には、石仏や磨崖仏が、数多く点在しています。当尾地区全体では40数体あるという石仏のいくつかは、鎌倉時代、東大寺復興に関わった名工たちが刻んだものとか。

いろいろな表情の石仏を眺めながら歩けば、少々きつい坂も頑張れます。実は逆コースならば下り坂で楽だったのですが・・・。

そして最後に微笑んでくれるのは、当尾の石仏中の白眉と言われる「わらい仏」=阿弥陀三尊像=。(下の写真) その姿に、思わず、こちらも微笑み返し。

もし、ここを訪れる機会がありましたなら、その足元に、なぜか土の中に埋もれて上半身だけが覗いている「眠り仏」もお見逃しなく・・・。

ここから岩船寺までは、あとわずか。紫陽花寺としても知られる岩船寺は、天平時代、聖武天皇の発願により、行基によって阿弥陀堂が創建されたのが始まりという古刹。山里の奥深く、森閑とした境内に、三重塔の姿が艶やか。

(上:岩船寺三重塔)

 

*アクセス、拝観時間などについては、各寺院、または観光案内をご参照ください。