日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

「小江戸」川越(下)=喜多院の庭・・・埼玉県川越市(改編)

2021-05-28 | 日本庭園

街並み散策の後、向かったのが「川越大師・喜多院」。川越の市街地の東南、深い緑に覆われた一画です。喜多院は、寺伝によれば、平安時代の初め、9世紀半ばに、慈覚大師により創建された勅願所という寺格を誇る古刹です。

しかし、この寺が全盛期を迎えるのは、慶長4年(1599)に徳川家康のブレーンとして知られる天海僧正が、法統を継いだ時代です。徳川家の保護により、寺運大いに栄えたとあります。

寛永15年(1638)の川越大火で、ほとんどの堂宇が焼失した時も、3代将軍家光の命により、すぐに再建されたということ。今ある庫裡・客殿・書院は、その際に江戸城紅葉山の別殿が移築されたものとか。

家光誕生の間や春日局化粧の間が喜多院にあるのは、そうした事情からです。また寺域の南側には、久能山、日光と並ぶ「三大東照宮」の一つ、仙波東照宮もあります。

しかし、喜多院の名をもっとも有名にしているのは、山門脇に安置された五百羅漢像でしょう。天明2年(1782)から約50年にわたり作られた石像が538体。1体1体が実にユーモラスです。

羅漢とは「悟りを開いた人」のはずですが、その表情、しぐさがあまりにも人間味あふれるもので、見ていると思わず口元が弛んでしまいます。内緒話をしている人、寝そべっている人、恥ずかしいのか絶望しているのか、顔を覆っている人、酒を酌み交わしている人。見飽きることがありません。知っている誰かの顔が思い浮かぶかも?

西の間奥殿前には、江戸城紅葉山を模した奥庭を背景に、中村青岳氏作庭により、昭和51年に完成した格調高い庭園が広がっています。

様式は「遠州流東好み枯山水書院式平庭」というもの。(下の写真)

滝、山水、せせらぎの三景が真・行・草に組まれ、一幅の水墨画を見るような景が展開しています。

前景のポイントは、大きな八角形の石を中心に、四方に伸びる飛石の配置の妙。手前に大きな石、後方に小さな石を使うことにより、遠近感が強調されています。

また中央に植えられたアカマツは、能舞台の「見附柱」になぞらえたもので、遠近感を演出すると同時に、松を眺めながら廊下を進むと、後方の景色が移動するという効果を狙っています。

背景の緑ともよく馴染み、散策に疲れてやってきた人々には、一種の清涼剤となる庭景です。

* 現在、コロナ感染対策のため、拝観に制限があるかもしれません。詳しくは下記など、公式HPをご参照ください。

参詣案内 - 川越大師 喜多院 (kawagoe.com)


「小江戸」川越=現代に生きる「蔵造りの街並み」・・・埼玉県川越市(改編)

2021-05-17 | 歴史を語る町並み

埼玉県川越市は、東京・池袋から東武東上線で30分と、都心に近接しながら、東京では失われてしまった江戸の風情を残す町として、「小江戸」と呼ばれ、人々の人気を集めています。

また、各自治体がテーマにあげる「まちづくり」のお手本としても、熱い視線が注がれてきた町。その意味で、川越は古くて新しい町と言えるでしょう。その目玉となるのが、蔵造りの町並みです。

まず、川越の歴史を遡ると、15世紀半ばに、関東管領の扇谷上杉氏が、家臣の太田道真・道灌父子に命じ、川越城を築城させたのが始まり。

その後、江戸時代の川越城主の顔ぶれを眺めれば、酒井忠勝、松平信綱、柳沢吉保などなど、大老や老中職を務めた、そうそうたる人物が名を連ね、当時の川越の重要性が窺われます。

また、新河岸川を使った舟運により、経済的にも繁栄。今ある蔵造りの町並みも、川越商人の財力があったからこそ、と言うことができます。

明治26年(1893)、川越は町の4割を焼失したという大火に見舞われます。その時、類焼を免れたのが数軒の蔵造りの建物だけだったことから、耐火建築としての蔵造りが注目され、再建の際に、こぞって建てられたのが蔵造りだったそうです。

最盛期には200軒以上もあったということですが、現在残っているのは約20軒。市街地に点在していますが、メインストリートになっている「一番街通り」に最も多く、10数軒が道沿いに軒を連ねています。

川越の蔵造り建築は、白漆喰ではなく、黒漆喰なのが特徴。黒壁に重厚な観音開きの扉が付き、瓦屋根も黒。白漆喰に比べ、華やかさには欠けますが、その分、どっしりと重量感のある町並みが形成され、「重要伝統的建造物群保存地区」であると同時に、「美しい日本の歴史的風土100選」にも選定されています。

川越駅からバスに乗り、「仲町」で下車。前方に見える瀟洒な建物は、埼玉りそな銀行川越支店。旧八十五銀行本店本館の建物で、明治11年(1878)の建築。国の登録有形文化財に指定されています。(下の写真)

ここから「一番街通り」の北のはずれ、「札の辻」までの400~500メートルが「蔵の町並み」の通りです。「札の辻」の地名は、かつて城下の中心地として、高札が立てられた場所の記憶。

川越の蔵造りの建物の多くは 明治時代のものですが、「札の辻」に近い「大沢家住宅」は、川越でもっとも古い蔵造りの町屋(重要文化財)で、江戸時代(1792)に造られたもの。明治の大火の際に、蔵造りの耐火性を証明した建物でもあります。明治の蔵造りに比べると、シンプルな外観ですが、さすがに風格があります。

(上: 風格のある大沢家住宅)

ここに並ぶ蔵造りの建物は、現在もほとんどが店舗として利用され、外観は昔のままに、内部を今風にお洒落に改造したものも多く見られます。古い建物を現代に調和させ、積極的に利用する。最近、美しい町並みづくりに、こうした手法が積極的に採り入れられている傾向にあるのは、嬉しいことです。

(上: 新旧の建物が融合する蔵造りの町並み)

また、ここでは、古い蔵造りの間には、現代建築も建てられていますが、外観は土蔵風にして、周囲の景観を壊さないよう気配りがなされ、新旧の一体化がうまくいっていると思います。

近年の地下ケーブル化によって、電柱と電線が視界に入らないのも、町並み景観がすっきりしている一因です。

一番街通りの中程、少し奥まったところに聳えるのは「時の鐘」。約400年前から、城下町に時を知らせてきたという川越のシンボルです。

(上: 音色でも歴史的町並みを盛り上げる「時の鐘」)

現在の櫓は、川越大火の後に建てられた4代目ですが、創建当時のままの形をとどめ、今も一日4回、午前6時、正午、午後3時、午後6時に鐘の音が時を告げるそうです。この鐘の音は、「残したい日本の音風景100選」の一つです。

町歩きをちょっと休憩。「料亭・山屋」でランチ。蔵造りの町並みのメインストリートから、ほんのわずか路地を入ったところにあるだけなのに、繁華街にあるとは思えない静けさです。

(上: 山屋の前庭)

山屋の創業は幕末。そして明治初年、関東を代表する「伝説的な豪商」横田家の別邸を譲り受け、この地に移転してきました。

横田家は、幕末の頃の関東長者番付では、常に横綱格だったという資産家。この別邸は、藩主をはじめ、賓客を招くための貴賓館でもあったそうです。

料亭となった今でもその名残をとどめ、約3,000平方メートルの敷地の中は、格調高い数寄屋風の建物を、雑木による自然風の庭園が囲み、清々しい空気で満たされています

(上: 空気を浄化してくれるような山屋の自然風庭園)

食事は基本的に予約制ですが、離れの2階を利用した「喫茶室」での軽食(平日の昼のみ)は、リーズナブルな予算で、格式高い山屋の味と雰囲気を堪能できます。

小休止の後、再び散策開始。

「札の辻」の西側にある「菓子屋横丁」へ。狭い路地に菓子屋が所狭しと並んでいます。川越では、明治時代の初め頃から、駄菓子作りが始められ、関東大震災の後、東京から菓子製造店が移って来たことで、昭和初期には70店ほどもあったとか。

(上: 失われた懐かしい情景に出会える菓子屋横丁)

現在は20店近くが軒を連ね、麩菓子、手作り飴、芋チップ、煎餅、焼き団子、きんつば等々、駄菓子から伝統の味まで、様々な種類の菓子が店先まであふれています。

それは中高年には郷愁を誘う懐かしい光景であり、幼い子どもには、新鮮な異次元空間と映るかもしれません。

(上: 嗅覚と視覚も楽しませてくれる菓子屋横丁)

界隈に漂う駄菓子の醸し出す香りは、「日本のかおり風景100選」に選ばれていますが、そのカラフルな様子が、嗅覚だけでなく、視覚も刺激してくれます。それにしても、川越の町には「日本の100選」が、ずいぶん色々ありますね。

 

* コロナの影響で、店舗の営業は平常通りでないかもしれません。予めのご確認をお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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城下町・会津散策(3)=武家屋敷と歴代藩主の墓所・・・福島県会津若松市(改編)

2021-05-07 | 歴史を語る町並み

「御薬園」を後にして、次に訪れたのは「会津武家屋敷」です。(御薬園からバスで6分、又は徒歩17分)

会津では、戊辰戦争の戦禍により、ほとんどの武家屋敷が焼失したため、当時の武家文化を伝えるために、家老・西郷頼母の屋敷を復元したものです。

(上: 会津武家屋敷門構え)

西郷家は、会津藩松平家譜代の家臣で、代々家老職を務めた1700石取りの家柄。従って、その屋敷も建築面積が280坪もあるという豪壮なもの。部屋数は「御成りの間」を含め、執務室や客間、居間、使用人部屋など、38室もあり、各部屋には武具や調度品が飾られ、実物大の人形によって、当時の上級武士の暮らしぶりが、臨場感をもって再現されています。

(上: 武家屋敷と庭園)

幕末期に家老となった西郷頼母近悳(さいごう たのもちかのり)は、戊辰戦争反対論を進言しましたが、受け入れられず城を脱出。残った妻子など一族21人は、足手まといになることを怖れ自刃したということ。敷地内の資料館には、自刃の場も再現されています。

武家屋敷の後は、ガイドブックに周辺の見どころとして「武家屋敷から徒歩10分」とあった会津藩主松平家墓所に向かうことに。しかし、ここで誤算が・・・。

「徒歩10分」というのは、墓所の入口までのことで、実は墓域は山の中腹にあり、奥までは、かなり急な山道や石段を15分ほども登らなければならなかったのです。

(上: 墓所に至る山道)

通称「院内御廟」と呼ばれる墓所は、会津藩初代藩主・保科正之が明暦3年(1657)、長男の死に際し、ここ院内山に墓を立てたのが始まりということ。以後、2代から9代藩主までの墓がここに立てられましたが、正之自身は遺言により、現在の猪苗代町、猪苗代湖を眼下に一望する磐梯山麓に葬られ、そこには正之を祭神とした土津神社があるそうです。

院内御廟に話を戻すと、墓所は入口に近い方から、西之御庭、中之御庭と続き、そこには保科正之の嗣子・正頼、2代藩主・正経、また歴代藩主の側室や子女の墓があり、それらは仏式で立てられています。

(上: 仏式の墓所)

そこから山道は急坂となり、さらに10分ほど登っていくと、石段を登り詰めた所が「入峰墓所」といい、ここには3代から9代までの藩主が「神式」により埋葬されています。

(上: 「入峰墓所」の図。パンフレットより)

神式の特徴は、まず前面に「亀石=亀趺座(きふざ)」に乗った「碑石」が立てられ、そこには故人の生い立ちや業績が刻まれています。碑石がずらりと並んだ光景は壮観。

(上: 亀趺座と碑石。頭部はすべて初代が眠る猪苗代町の方角=北を向いているそうです)

碑石より一段高いところには、墓石の目印として「表石」が立てられ、故人の生前の名前と身分が刻まれています。

さらに高い所、小山のように盛土された上に、八角形の石燈籠に似た「鎮石」が据えられ、これが実際の埋葬地です。

(上: 埋葬地の上に据えられた鎮石)

ところで、碑石を支えるのは「亀石」というので、彫られているのは「亀」かと思ったら---実際、一見すると亀に見えるのですが---よく見ると、顔は動物のようで、耳も付いています。これはタクシーの運転手さんに伺った話ですが、この動物は貘(ばく)という古代中国の想像上の動物で、熊や犀や虎など、いろいろな動物の特徴が合体した姿なのだそうです。(下の写真)

人の悪夢を食うということで、死者の霊を護る動物とされています。

この墓所は、大名の墓所としては、全国有数の規模を誇るということで、その荘厳は、山道を登ってきた疲れを吹き飛ばすものでした。

 

---「会津散策」終わり---

 

 

 


城下町・会津散策(2)=名園・御薬園他・・・福島県会津若松市(改編)

2021-05-03 | 歴史を語る町並み

鶴ヶ城を北出丸方面から出ると、正面に裁判所。そこは会津家老であった内藤家の屋敷跡で、当時の庭園の一部が残されてきます。

「白露庭」と呼ばれ、江戸期の築造で、遠州流の流れをくむとあります。池はセメントで固められ興醒めですが、滝口の石組などに、「名園」と言われたかつての姿の片鱗が垣間見えます。当時の庭木でしょうか、大樹に囲まれ、市の自然景観指定緑地になっています。

(上の2枚の写真: 内藤家の屋敷跡に残る庭園遺構)

 

この後は、鶴ヶ城北口から周遊バスで10分ほど東に行った会津松平氏庭園「御薬園」へ。国指定名勝の正真正銘の名園です。

「御薬園」こと会津松平氏庭園(名勝)は、鶴ヶ城北口からバスで10分ほど(徒歩でも約20分)のところにあります。

園内に足を一歩踏み入れると、青々とした芝生を前景に、広々とした池と亭のある中島、対岸の滝石組、さらにその先、扇形に開けた緑樹の間から望まれる東山。それらが一気に眼に飛び込んできます。

(上: 中島に建つのは「楽寿亭」)

この地には古来より霊泉伝説が語り継がれ、そこに室町時代の15世紀半ば、蘆名盛久が別荘を建てたことに始まると、案内にあります。現在の庭園は、江戸時代、元禄9年(1696)に会津藩3代藩主・松平正容が、近江より園匠・目黒浄定を招き、池泉回遊式庭園に大改造したもの。

また通称の「御薬園」の名は、2代藩主・保科正経が、領民を疫病から救うために、別荘に薬草栽培を試みたことに由来します。

 (上: 薬用植物標本園)

現在も園内の一角は、当時の名残を留めるように薬用植物標本園で占められ、そこには400種の薬草が栽培されているそうです。

順路に従い心字池を左回りに巡ります。最初に目を引くのは、樹齢500年というハイゴヨウマツ。水平方向に伸びた枝葉が小山のようになっています。姿の良い老樹は、その庭の維持管理状態の指標とも言えます。

船着き場のある中島に建つのは、茅葺きの「楽寿亭」。その風雅な佇まいは庭景のポイントです。楽寿亭は茶席や書院として使われましたが、そこは藩主と重臣の密談の場でもあったとか。確かに、四方を水に囲まれて、盗聴不可能。密談には格好の場所には違いありません。

池の北端は女瀧。傾斜のゆるい段上に組まれた石組の上を、水が滑らかにすべり落ちてきます。

(上: 女瀧から眺めた庭景)

女瀧を過ぎると、池の汀線が複雑になり、入江や岬の景を楽しみながら、さらに歩を進めると男瀧。規模は小さいけれど、豊富な水がほとばしるように流れてくる様は、清涼感でいっぱい。

(上: 男瀧)

池畔の御茶屋御殿は、藩政時代に藩主の休息所として利用された数寄屋造りの建物ですが、戊辰戦争の際には、新政府軍の傷病兵の診療所として使われたために、戦火を免れたということ。柱の刀傷が当時の記憶を生々しく伝えています。

園内にはもう一つ、歴史的建造物があります。薬草園に面して建つそれは、重陽閣と命名されたもので、松平家出身の秩父宮妃勢津子殿下ゆかりの建物。昭和3年に妃殿下ご一家が宿泊した、当地の東山温泉新瀧旅館別館が移築されたものです。

---つづく---