日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

出雲大社(下)・・・島根県出雲市(改編)

2021-09-02 | 神社

前回は、本殿正面からの参拝までをご紹介しましたが、その後は、囲いの西側に出て、そこからも参拝。(下の写真)それが正式なお参りの仕方なのだそうです。そして、出雲大社の参拝作法は、一般の神社とは異なり、「二礼四拍手一礼」。

(下: 本殿の屋根。屋根の千木(ちぎ)に穴が開いているのは、風圧を少なくするため)

出雲大社は「縁結びの神様」としても有名ですね。お願い事をした後は、おみくじをひく人も多いのでしょうか?

(上: おみくじが、ぎっしり結ばれた木)

本殿の西側ある「神楽殿」。その正面にある「注連縄(しめなわ)」は日本一の大きさと評判の注連縄で、長さ13m、周囲9m、重さ5トンという巨大さです。(下の写真)

 

ところで、国歌『君が代』の一節に、「さざれ石の巌(いわお)となりて・・・」という歌詞がありますが、駐車場の前にあるこの岩。一見、一つの岩のようですが、近づいてよく見ると、確かに小さな石(さざれ石)が集まってできています。(下の写真)

(上: さざれ石が巌に・・・)

学名は、「石灰質角礫岩」で、長い年月の間に溶解した石灰岩が、多くの小石を集結して次第に大きく生長したもので、まことにめでたい石であると、説明にありました。岐阜県揖斐川町で発見され、奉納されたものだそうです。

参拝の後は、参道から延びる「神門通り」を歩けば、出雲の名物・名産品を売る店が、ずらりと並んでいます。

終わりに・・・

出雲大社の起源を辿ると、その昔、北陸から西日本にかけて、広大な領域を支配していた下界の出雲国に対し、天照大神が治める天界の一族がその勢力を伸ばして来ます。そこで出雲国の王であった大国主大神が、「国譲り」を条件に造営させたのが、出雲大社であると伝わっています。

この神話は、各地に伝わる鬼退治や怪物退治の伝説と重なり、大和王朝が全国統一の過程において、様々な土着の民族を征服していった歴史を窺わせるのではないでしょうか。

 


出雲大社(上)・・・島根県出雲市(改編)

2021-08-27 | 神社

10月は別名を「神無月(かんなづき)」といいますが、それは全国の神様がみんな出雲に出払ってしまうからとか。そこで、出雲では、この時期が「神在月(かみありづき)」となるそうです。

出雲大社の御祭神は「大国主大神」、古歌で知られる「イナバの白うさぎ」で、白うさぎを助けた「大黒様」としても知られています。

(上: 神域の一画にある大国主大神と白うさぎの像)

出雲大社の参道は「下り参道」。木製の「二の鳥居」から下って、一気に「神域に入る」というもの。神社仏閣の参道で「下り参道」は珍しいとか。(下の写真)

参道の両側は松並木。松は寛永年間(1630年頃)に松江藩主の夫人が祈願成就のお礼として奉納されたのが始まりだそうです。

昔は参道は3本に分かれていて、殿様や貴族だけが真ん中を通ることが許されていたとか。

(上: 「日本名松100選」にも選定されている松並木の参道)

中には巨木の松も・・・

松並木が尽きた先に、銅製の「四の鳥居」があります。天正8年(1580)に、毛利輝元によって寄進されたのが最初で、現在の鳥居は、輝元の孫の長州藩主によって造り直されたものだそうですが、銅製の鳥居としては日本で最も古い鳥居だそうです。(下の写真)

ちなみに出雲大社では、本殿に至るまでに4つの鳥居があり、それぞれ、コンクリート製、木製、鉄製、銅製と、すべて違う材質になっています。

「四の鳥居」をくぐると「拝殿」。出雲大社は巨大な注連縄でも有名ですね。最大のものは、あとでご紹介する神楽殿にありますが、ここの注連縄もかなりの巨大さ。

(上・下: 大きな注連縄に目を奪われる拝殿)

拝殿から横を見ると、神域の両側に長い建物があります。(下の写真)

これは「十九社」といい、10月に全国から集まった八百万(やおよろず)の神々が、7日間の神議り(かみはかり)の間、ここに宿泊するのだそうです。

そして本殿が正面に・・・。(下の写真)

拝殿の先にある門は、寛文7年(1667)建立の「八足門(やつあしもん)」。(下の写真)

 鴨居部分の瑞獣と流水紋の彫刻は、名工・左甚五郎作と伝わっています。

(上: 鴨居の彫刻と神紋「二重亀甲に剣花角」)

「本殿」は大社造りと呼ばれる日本最古の神社建築様式。現在の本殿の高さは24mということですが、近年、神域の発掘により、草創期の本殿がこの二倍もの大きさであったことが証明され、話題になりましたね。

(上: 本殿の背後には、八雲山を中心に、左に鶴山、右に亀山がある)

一般の参拝では、本殿の前まで行くことは出来ないのですが、私はツアーでの参加だったので、その特典で、そこまで行くことができました。しかし撮影禁止のため、ご紹介できません(残念)。印象的だったのは、地面に敷き詰められた玉砂利。一個の大きさが6~10数㎝もあり、もはや玉砂利ではなく玉石?と呼べるものだったこと。出雲大社の特別感を盛り上げていました。

-----つづく  -----

 


厳島(いつくしま)神社(干潮時)・・・広島県(改編)

2021-08-21 | 神社

ご存じのように、広島県「安芸の宮島」の海辺に建つ「厳島神社」は、満潮時には、あたかも海に浮かんでいるように見える特異な神社です。

昔から宮城県の「松島」、京都府北部の「天橋立」とともに「日本三景」の一つとして知られていますが、近年は世界遺産にも指定され、「伊勢神宮」、「出雲大社」と並んで、日本を代表する神社の一つに数えられています。

伊勢神宮は五穀豊穣をもたらす太陽神を祀り、出雲大社は国造りに関わる神、そして厳島神社は海の神を祀っています。

厳島神社の創建は、推古天皇元年(6世紀末)と伝えられていますが、今日に見る美しい社殿が造営されたのは、平安時代後期(12世紀半ば)、平清盛によってでした。

(下: 干潮時の社殿の景)

 

 厳島神社へのアクセスは、宮島口桟橋からJR西日本宮島フェリーで・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

対岸の朱塗りの大鳥居がみるみる近づいて、10分ほどで宮島着。

まずは手水場で、心身を清めて参殿。寝殿造り風の建物なので、神社に参拝というより、平安時代の御殿に上がるという感じです。

回廊を進むと、幾重にも重なった朱塗りの柱が、うつくしい光景を演出します。

そして、私が一番注目したのは、床の構造。よく見ると、板と板の間に隙間があります。

満潮時には海面が床下すれすれまで上昇するため、嵐などで、それ以上に潮位が上がった時に、回廊にかかる海水の圧力を弱め、上がった水を逃がすための工夫とか。

また、以前に参拝した時は満潮時だったのですが、今回は干潮時で、新たな景色を見ることができました。

その一つは、「鏡の池」。

海水が引いた後に、小さな池が現れるという趣向です。

そして、大鳥居の足元まで行けたこと。

遠くから眺めた時は、大きいことは大きいけれど、ごく普通の鳥居に見えたのですが・・・

近づくと、その巨大さと造形美に圧倒されました。

鳥居は柱の前後に控柱のある構造で、木造の鳥居としては、日本一の高さと大きさを誇るそうです。

また、海底に基礎を打ち込むことなく、州浜に置かれた土台の石の上に立っているだけ。その方が、満潮時や荒波に対応できるのだとか。最上部に7トンの玉石を詰め、安定のための重しにしているとも。

それにしても、干満の差が約4メートルあるという潮の流れに、よく耐えられるものだと思いました。

       

 (上: 鳥居を支える豪壮な柱と、柱の足元にぎっしりついたフジツボ。間にコインもぎっしり)

(上: 鳥居から望む厳島神社)

「驕(おご)れる人も久しからず・・・」と冒頭にある『平家物語』の影響からか、平家一族の筆頭であった平清盛は、悪いイメージで描写されることが多いのですが、厳島神社を見ていると、また別の清盛像が浮かんでくるようです。

 

* 厳島神社の大鳥居は、2021年6月17日現在、大規模な修理工事中とのことです。工事期間などについては、公式HPをご参照ください。

 

 

 

 


お伊勢参り「内宮」---三重県

2011-04-03 | 神社

外宮から7キロほど離れた内宮へは、バスで約15分。内宮前で下りると、大きな素木の鳥居の向こうに、五十鈴(いすず)川に架かる木造の宇治橋があり、内宮神域への一歩の始まり。(下の写真)

  

(上: 伊勢神宮パンフレットより)

(上: 『伊勢二千年ものがたり』より)

橋の向こう岸には、もう一基の鳥居があり、背景のこんもりした森は、さらに背後の山々に連なり、内宮神域の荘厳さは、その入口からすでに感じとられます。

ところで、伊勢神宮では周知のように、20年に一度、「神様のお引っ越し」である式年遷宮が行われますが、この橋の内と外に立つ大鳥居は、その時に、内宮・外宮の旧正殿の棟持柱(むなもちばしら)で作られるのだそうです。

そしてさらに20年後、今度は「関の追分」と桑名の「七里の渡し」に遷され、計60年にわたり三度のお務めを果たすのだとか。何と壮大なリサイクル?

100メートル以上あるという宇治橋を渡って、表参道を進み、一の鳥居を過ぎると、右手に幅広の石段が見え、下って行くと五十鈴川のほとりに出ます。ここは「御手洗場」と書いて「みたらし」と読む、お伊勢参りの人々の禊(みそぎ)の場。透明な水の流れに心が清められるのを実感します。

(上: 内宮神域を清らかに流れる五十鈴川は、天然の「御手洗場」。川岸の石畳は、徳川綱吉の生母・桂昌院が寄進したものと伝わる)

この近くに祀られている滝祭神は、「おとりつぎさん」と親しまれている神様で、正宮にお参りする前に、この神様を詣でると、頼み事を大神にとりついで下さるとか。発想がユーモラス。

二の鳥居をくぐり、立派な神楽殿を左に見て、さらに進めば、参道の両側や途中にも、びっくりするほどの大樹が林立し、2000年の歴史を物語るかのよう。 

(上: 内宮参道に林立する老杉)

正宮は参道から20段ほどの石段を上ったところにあります。といっても、外宮同様、正殿は四重の神垣に囲まれ、参拝は白絹の「御幌(みとばり)」が風に揺れる外玉垣の御門前から。

(上: 内宮=伊勢神宮パンフレットより)

こんなに囲まれていて、願い事が届くのかしらと、ちらりと見える程度の屋根の端を見上げながら、不謹慎な考えがよぎったものですが、八百万(やおよろず)の神々のトップに位置する天照大御神のことですから、大丈夫なのでしょう。

建築に興味のある方は、正宮からの帰り道、右手の脇道を行くと、正殿と同じ建築様式を見ることができます。「御稲御倉」と「外幣殿」がそれで、小規模ではありますが、囲われていないので「唯一神明造り」の特徴がよく分かります。

ここから少し先の石段の上には、天照大御神の荒御魂を祀る、内宮第一の別宮「荒祭宮」があります。その前で、太陽に向かって立ち、両掌で三角形を作り、顔の前にかざしている女性たちがいたので、何かの儀式かしらと尋ねると、こうして太陽から「気」をもらうのだとか。場所が場所だけに、木洩れ日さえも、神々しく思われるのでした。

 


お伊勢参りは「外宮」から---三重県

2011-03-27 | 神社

伊勢神宮参拝は、「外宮(げぐう)」から「内宮(ないぐう)」へと詣でるのが正式ということ。近鉄およびJR伊勢市駅前から、直進する道路の突き当たりに広がる深い森が、外宮の神域で、バスなら2分、歩いても7~8分です。

車の往来が激しい幹線道路を横切って、一歩境内に入れば、そこは別世界。亭々と空に伸びる樹木の中を、ざくざくと玉砂利を踏みしめて奥に進むうちに、俗世界の垢が落ちていくような・・・。

天照大御神の食事を司る神・「豊受大御神」を祀る「外宮」の正殿(しょうでん)は、「唯一神明造り(ゆいいつしんめいづくり)」という、日本最古の様式を伝える建物。ヒノキの素木を用い、切妻、平入りの高床式。屋根は茅葺きで、柱は掘立(ほったて)。

屋根の両端には「千木(ちぎ)」が高く聳え、棟には「鰹木(かつおぎ)」が並んでいるというもので、弥生時代の高床式の穀倉が原型とされています。内宮も同じ様式ですが、屋根の千木の切り方と、鰹木の数が違うそうです。 (下は内宮の写真)

(上: 遷宮直前時の内宮=『伊勢二千年ものがたり』より)

そんな予備知識を仕入れて行ったにもかかわらず、正殿の前で、「あれれ?」の気分。社殿は木の垣や柵で幾重にも囲われて、屋根のほんの先端しか見えないのでした。

(上: 外宮=伊勢神宮パンフレットより)

文字通りの「垣間見る」状態。その上、垣の内側は撮影禁止で、傍らにガードマンが立っている物々(ものもの)しさ。さすが別格の神宮です。

ちなみに伊勢神宮の正式名称は単に「神宮」というのだそうです。そこへお参りすることは「参宮」と言い、一般の神社の「参拝」とは、言葉を使い分けていた時代もあったとか。

外宮神域は、正宮の他、鎌倉時代に、蒙古の襲来を神風で撃退した功績により、末社から別宮に昇格したと伝わる「風宮」をはじめ、別宮三社と摂社、末社など十社が点在し、厳かな雰囲気で満たされています。