日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

松阪=豪商の町並み・本居宣長&御城番屋敷・・・三重県(改編)

2020-12-31 | 歴史を語る町並み

松阪市は、伊勢湾に面し、古くから開けた土地でしたが、現在の町並みは、今から400年余り前の天正年間(1588)に、戦国の名将・蒲生氏郷が城を築いたことにより、整えられたと伝わっています。

松阪といえば、松阪牛を第一に思い浮かべる方も多いかもしれませんが、この地は三井家発祥の地でもあり、商人の町として発展してきました。三井家は残っていませんが、記念館となっている小津家や、風格のあるたたずまいを見せる長谷川邸が、当時の繁栄を偲ばせます。

(上:小津家)

 紙と木綿を商っていた小津家は、数多い江戸店持ちの豪商の中でも筆頭格に挙げられる商家で、現在は「松阪商人の館」として公開されています。

内部は想像以上に広く、見世の間や勘定場、各種座敷など20余りの部屋といくつかの中庭があり、裏手には蔵が並ぶという造りが、当時の豪商の栄華を偲ばせます。千両箱ならぬ万両箱なんていうのがあるからすごい。

松阪商人の江戸店の多くは、日本橋周辺に集まっていたそうですが、特に大伝馬町には、松阪木綿を商う店が軒を連ねていたとか。松阪木綿のシマ柄が、粋好みの江戸庶民に大人気だったといいます。

それもそのはず、シマは「島渡り」の意味で、今のベトナムあたりから伝わったということ。つまりは舶来の柄。松阪木綿のストライプは、当時、時代の最先端をいく斬新なものだったのです。

小津家の近く、三井本家跡にある「松阪もめん手織りセンター」は、松阪木綿の普及を目的に運営され、予約すれば、機織り体験もできます。

その裏手、魚町通りには、江戸時代の木綿問屋「丹波屋」の長谷川邸が、重厚な構えを今に残しています。築地塀や格子戸、うだつ、霜よけ、蔵・・・と、その見事な外観は、松阪の町並みウォッチングに欠かせません。現在は「旧長谷川治郎兵衛家」と改称され、内部も見学することができます。

 (上:長谷川邸)

そしてその先には、レトロな木造二階建ての「牛銀本店」。市内に数あるすき焼き・ステーキ店の老舗です。肉はもちろん松阪牛。

松阪にはまた、別の歴史を語る「顔」があります。まず、松阪は本居宣長のふるさとです。「本居宣長って誰?」と思う方もいるかもしれませんが、松阪が生んだ国学者です。当時、魚町通りにあった旧宅が記念館として、松阪城跡内に移築されています。

(上:石垣に名城の痕跡を留める松阪城跡)

宣長は、享保15年(1703)、商家の子として生まれながら、小さい頃から学問に熱中し、まるで商才がなかったので、母の配慮で医師となり、学問を続けることに。23歳のときに医者の勉強のために京都に行ったことが、和歌や神道の研究を志すきっかけになったということ。

旧宅に隣接する本居宣長記念館には、自筆稿本や遺愛の品など、資料約16,000点が収蔵、展示されています。『古事記伝』を執筆、『源氏物語』や和歌を研究し、「もののあはれを知ること」を説いた宣長は、山桜を愛し、鈴の音を愛したそうです。旧宅の書斎は「鈴屋」と呼ばれています。

記念館にも、様々な鈴が展示されていますが、もっとも有名なのが、松阪のお土産品にもなっている「駅鈴」。駅鈴は古代、地方に派遣される役人の、身分証明として持たれたとか。

城跡の一角には、歴史民俗資料館もあります。この建物は、明治44年建築の図書館を利用したもの。テーマは「モノで語る松阪物語」とあり、伊勢白粉(おしろい)や松阪木綿など、商都松阪を支えた特産品や、豪商の店先の復元などが主な見どころ。(4月2日まで、臨時休館中とのこと)

(上:建物も歴史的価値をもつ歴史民俗資料館)

城跡近くにある「御城番(ごじょうばん)屋敷」もまた、松阪ウォッチングのハイライト。御城番屋敷は、松阪城の警備を任務とする紀州藩士とその家族の住居として、文久3年(1863)に建てられた組屋敷です。

そこには石畳の小道をはさんで、東棟10戸、西棟9戸が連なっているのですが、平屋がすっぽり隠れるくらいの高さに刈り込まれたマキの生垣で覆われ、小規模ながら、すばらしい景色をつくり出しています。(下の写真)

屋敷は現在も子孫の方々が維持管理し、住居として使われているので、内部は改装されていると思われますが、そのうちの1戸が、当時の姿に復元整備され、公開されています。生け垣の切れ目が住居の入口。生垣は内にも外にも優しいということを実感します。

そこから少し坂を下った殿町もまた、「旧・同心町」とあるので、昔は武家屋敷が並んでいたのでしょうか。この辺りも生垣の美しい所です。

 * 写真は古いものなので、多少違っているところがあるかもしれません。


湖西散策(下)=「竹生島」(琵琶湖に浮かぶ神の島)・・・滋賀県(改編)

2020-12-24 | 歴史を語る町並み

琵琶湖北部に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)は、周囲2キロメートル。全島が緑樹に覆われ、「深緑・竹生島の沈影」として、琵琶湖を代表する風景の一つになっています。古来より信仰の対象となり、島の名前は「神の斎く(いつく)島」に由来するそうです。

伝承によれば、伊吹山の神の「多多美比古命」が、浅井岳(金糞岳)の神である「浅井姫命」と高さを競い、負けた多多美比古命が怒って、浅井姫命の首を切り落とし、その首が琵琶湖に落ちて竹生島が生まれたとあります。

こうした「山の背比べ」の伝承は、各地にあり、興味を引かれます。

今津港から竹生島までは、船で30分。この日は晴天で風もなく、湖は鏡のように平らに見えましたが、沖に出てくると、意外に波があるものです。はるか遠くの湖岸に、「白砂青松」の松並木が黒々と帯状に延びているのが見えました。

訪れた当時、船が竹生島に近づくにつれて、気づくのが島を覆う緑樹の異変でした。カワウが大規模なコロニーを作り、その数は約20,000羽とも。その糞害によって、多くの木が枯死しているのだそうです。

実際、島の上空に飛び交うカワウの姿の多いことにビックリ。「深緑」の島が危機的状況に・・・。

(現在は、駆除などの対策により、生息数は激減し、緑の島に回復しつつあるとのこと)

島の南部にある竹生島港で下船。ここ竹生島では、船着き場だけが平地で、あとは急峻な断崖です。見上げると、絶壁に張り付くようにして上っていく石段と、点在するいくつかの堂宇が望まれます。

港から数軒の売店を通り過ぎると、すぐに寺域の始まりで、拝観料400円を納めて「祈りの階段」と呼ばれる165段の石段を上ります。疲れたら振り返って、眼下に広がる琵琶湖のパノラマに元気をもらいましょう。

最も高い所に宝厳寺・本坊があります。現在、竹生島にはこの宝厳寺という「寺」と、都久夫須麻(つくぶすま)神社という「神社」がありますが、平安時代から明治時代までは、この島では「神仏習合」の信仰が行われていました。

(上: 宝厳寺)

宝厳寺は寺伝によれば、奈良時代、聖武天皇の命により行基が開創、夢のお告げで、本尊として弁才天を祀ったという古刹。その後、千手観音も祀られ、日本三弁才天の一つとして、あるいは西国三十三箇所観音霊場第三十番札所として信仰を集め、大いに栄えたということです。

一方、都久夫須麻神社も由緒ある神社で、「山の背比べ」伝説にある浅井姫命を祭神としていましたが、平安時代末期頃から、この神が仏教の弁才天と同一視されるようになり、都久夫須麻神社は宝厳寺と一体化していたということ。

二つが区別されたのは、明治時代の「神仏分離令」によるものです。

古くから「神仏習合」の信仰が行われていた竹生島で、これまで都久夫須麻神社と一体化していた宝厳寺は、明治時代の「神仏分離令」によって廃寺の危機に瀕します。しかし、かろうじて本尊の弁才天を死守し、本堂の建物のみを神社に引き渡すことになったそうです。

仮安置の弁才天のために現在の本堂が再建されたのは、昭和17年のことでした。本堂前には、鎌倉時代の特徴が見られるという五重石塔(重文)があります。

竹生島の伽藍は、長い歴史の中で、幾度か大火の被害を受け復興されていますが、慶長年間(1602~1603)には、豊臣家の家臣・片桐且元が普請奉行として来島し、唐門、観音堂、渡り廊下、そして弁才天社であった現・都久夫須麻神社本殿の復興に当たっています。

三重塔の脇にある樹齢400年の見事なモチノキは、その時に且元が植えたと伝わっています。

 

崖の中腹にある唐門(国宝)は、京都東山にあった豊臣秀吉の霊廟の極楽門を移築したもの。その奥の懸造りの観音堂(重文)とともに、極彩色の文様や彫刻の美しさが印象的。

(上: 舟廊下=天井に注目)

観音堂と、その先の都久夫須麻神社は、約30メートルの屋根付き廊下で結ばれています。この廊下は、豊臣秀吉の御座船の船櫓を利用して建てたと伝わるところから「舟廊下」(重文)と呼ばれています。

そして廊下を抜けると都久夫須麻神社。本殿(国宝)は、伏見城の遺構と伝わり、極彩色の彫刻や精緻な飾り金具のある桟唐戸(さんからど)(国宝)など、普通の神社には見られない華麗な建物です。

(上: 都久夫須麻神社本殿。「つくぶしま」という神社名は「竹生島(ちくぶしま)」の古名という)

拝殿は琵琶湖に面し、眺めも抜群。ここでは「かわらけ投げ」が楽しめます。かわらけに願い事を書いて、湖面に突き出た鳥居に向かって投げ、かわらけが鳥居をくぐれば、願い事が叶うそうですよ。

そうこうするうちに、帰りの船の時間。「波のまにまに漂えば・・・今日は今津か長浜か・・・」(『琵琶湖周航の歌』より)

湖西・今津港に戻っても、湖東・長浜港に向かっても、琵琶湖を中心に育まれた歴史と文化は魅力がいっぱいです。

---「湖西散策」終わり---

 

 

 

 


湖西散策(上)=海津~湖の辺の道~今津・・・滋賀県(改編)

2020-12-17 | 歴史を語る町並み

滋賀県のほぼ中央に、南北に長く横たわる日本最大の湖、琵琶湖。その面積約670平方キロメートルは、淡路島に匹敵するとか。日本地図を見ると、琵琶湖の南端は京都に隣接し、北端は日本海のすぐ近くまで迫っています。

そのため古来より、明治時代に鉄道が開通するまでは、畿内と北陸・日本海を結ぶ水上交通路としても大きな役割を果たしてきました。

沿岸の地名を眺めると、特に湖の西岸には大津、今津、海津、塩津など、港を意味する「津」のついた地名が並んでいることに気づかれるでしょう。

海津は湖上交通の港町としてだけでなく、漁業の拠点でもあり、また特に江戸時代は、北国街道の宿場町として繁栄しました。町並みは、そうした過去の姿をよく残し、「自然と人の暮らしが作り上げてきた文化的な風景」を対象とした「重要文化的景観」の一つに選定されています。

JR湖西線マキノ駅から湖畔沿いに少し行くと、湖岸に軒を連ねる家々の足元に、累々と積まれた見事な石垣に目を奪われます。「重要文化的景観」の構成要素にもなっているこの石積みは、江戸時代に築かれたもの。

記録によれば、元禄年間に度々、大波があり、家屋や街道が被害を受けたことをきっかけに、代官・西与一左衛門の尽力によって築造されたとあります。それが今日もなお、湖岸に「高さ2.5メートル前後の石積みが、1.2キロにわたって続く」独特の景観を見せています。

遠望すると城郭都市のような豪壮な石積み景観ですが、近づくと、花壇の一部になっていたり、物干しとして利用していたりと、暮らしに溶け込んでいる様子がほほえましくもあります。

現在の海津の町並みには、かつてそうであった琵琶湖水運の拠点としての賑わいはありませんが、家並みや、いくつかの老舗の店構えなどが、その歴史を物語っています。

蔵造りの海津漁業協同組合旧倉庫、琵琶湖特産の鮒鮨で知られる「魚治」、造り酒屋の「吉田酒造」、あるいは400年以上の伝統を持つという手づくり醤油の「中村商店」など。また集落内に寺院の多いのも特徴の一つかもしれません。

 

海津の町並みが延びる先、琵琶湖に大きく突き出ている半島は、海津大崎。琵琶湖八景の一つ「暁霧・海津大崎の岩礁」として知られ、湖岸を4キロにわたって彩る桜の名所にもなっています。(日本の桜名所100選)。

湖のほとりに続く小径は「近江湖の辺(うみのべ)の道」という遊歩道。湖西の近江舞子から北回りで湖東・近江八幡まで、琵琶湖の湖岸全体で、約140キロの自然歩道が整備されているそうです。海津大崎とは逆の方向、高木浜、知内浜方面に向かって歩いてみました。

さざ波が軽やかに打ち寄せる岸辺を、空に舞う水鳥の群を眺めながら歩けば、「われは湖の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと・・・・」と『琵琶湖周航の歌』が思い出されます。(年齢がバレそうですね)

(上:「湖の辺の道」の中でも、風光明媚な知内浜からの眺め)

このあたりからは、濃緑の松並木が延々と水辺を縁取り、まさに白砂青松の光景。今津浜までの約8キロにわたって、2,000本以上のクロマツが並木をつくっているそうで、「日本の白砂青松100選」にも選定されています。

この松並木は、防風林として、あるいは「魚付き林」として、明治末期から地元の人々の手によって植林、保護されてきたそうです。

高木浜から今津まで、足に自信のある方は「湖の辺の道」を辿って約11キロを歩いても良し、そうでない方はマキノ駅に戻って、湖西線で2つ目が近江今津です。

 

今津に着いて、ここから船で竹生島に向かう予定ですが、船の出港までに時間があったので、港から600メートルほど北にある曹澤寺を訪ねました。「江戸後期の枯山水の名庭」があると、ガイドブックで読んだからです。

今津もまた、かつて若狭街道と湖上水運の拠点として栄えた町で、今津港のある浜通りを、曹澤寺に向かって歩くと、道筋には老舗旅館の丁字屋や、ベンガラ色の格子戸など、歴史を感じさせる建物が点在しています。

江戸時代の今津宿は、加賀藩の領地だったということで、曹澤寺は加賀前田家ゆかりの禅寺。風格のある山門や本堂がその由緒を物語っています。庭園は滝と流れを表現した枯山水。

しかし実生の樹木も多数あり、灌木などは後に植えられたものらしく、どこまでがオリジナルの姿か分からなくなっているそうです。また借景となっていた背後の山も、中景の建物で遮られるなど、往時の姿は大きく損なわれていると思われます。

ただ石組や流れに架かる石橋など、格調高い構成は、名園であったことを想像するに難くありません。庭園の維持管理の難しさを感じさせられました。

今津の町並みを彩る歴史的建造物に、アメリカ人建築家・ヴォーリスの建物があります。ウィリアム・ヴォーリスは、メンソレータムを日本に普及させた実業家としても知られていますが、建築家でもあり、明治末期から昭和前期にかけて、教会や学校を中心に全国で1,600件余りの建築設計を手がけたそうです。

琵琶湖の周囲の町、特に近江八幡市に彼の残した建築物が集中していますが、ここ今津にも旧郵便局、教会、そして現在はヴォーリス資料館になっている旧銀行(上の写真)の、三棟のヴォーリス建築が、近代化の象徴として、その名もずばりの「ヴォーリス通り」に並んでいます。

今津は『琵琶湖周航の歌』が生まれた町でもあります。歌碑のある今津港から、琵琶湖に浮かぶ竹生島へ渡ります。

 

* お断り=最新の情報ではないので、景観が変わっているところもあるかもしれません。

 


依水園からの散歩道(下)=志賀直哉旧宅、新薬師寺、白毫寺・・・奈良市(改編)

2020-12-11 | 古道

前記の「ささやきの小径」を抜けると、志賀直哉が昭和初期に移り住んだ住宅があり、公開されています。奈良の自然や文化を愛した文豪・志賀直哉が、自ら設計したという家で、数寄屋造りを基調としながら、洋風のサンルームや娯楽室を付加するなど、和と洋のスタイルが調和し、彼の趣味が窺えます

庭もまた、建物に合わせ、樹木の多い和風の庭と、サロンに面した明るい芝庭とで構成。『暗夜行路』などいくつもの作品が世に出され、文人、画家たちが集まるサロンにもなった家です。

志賀直哉旧居のあるこの界隈は高畑といい、鎌倉時代頃から春日大社の神官たちが住み始めたという社家町。

 

趣のある土塀や築地塀に囲まれた閑静な住宅街を10分程歩くと、新薬師寺。

新薬師寺は、創建が天平19年(747)という古刹。当時は東大寺とともに、南都十大寺の1つに数えられた大伽藍を備えていましたが、現在残る天平建築は本堂(国宝)のみ。

本堂は、創建当初は食堂だったという建物で、こじんまりとしていますが、瓦屋根の線がのびやかで、どっしりと安定感があり、正面の石燈籠とともに、品のある姿が印象的です。

内陣に安置された諸仏は、本尊薬師如来坐像(国宝)、十二神将像(国宝)など。特に十二神将像は、わが国最古最大のものということで、本尊を円形に取り囲んだ様は迫力満点。

中でも「バザラ大将」(上の写真=パンフレットより)は、旧500円切手の図柄にもなっている有名な像で、まさしく「怒髪天を衝く」姿には圧倒されます。

新薬師寺の裏手には、黒川紀章設計の「入江泰吉記念奈良市写真美術館」があり、大和路の風景や人々の暮らし、仏像を、「心の原風景」として撮り続けた写真家・入江泰吉の作品が展示されています。

美術館の写真がオーバーラップする、のどかな風景の中を、しばらく行くと白毫寺(びゃくごうじ)です。白毫寺もまた、その歴史は8世紀初めに遡るという古刹。風化した土塀が風情豊かな石段を上り、境内に到れば、奈良市街が一望の下。

白毫寺は「花の寺」としても知られ、とりわけ「五色の椿」は、「奈良三名椿」の一つに数えられる樹齢400年の名木で、その名の通り、1本の木に5色の花が咲くそうです。花の見頃は3月下旬から4月上旬ということ。

石仏が並ぶ小径を辿り、宝蔵に入ると、本尊阿弥陀如来像(重文)をはじめ、平安・鎌倉期の仏像が安置されています。特に閻魔王坐像(重文)の憤怒の形相が豪快。

因みに、寺名になっている「白毫(びゃくごう)」とは、「仏の眉間にあり光明を放つという白い巻毛」のことだそうです。

・・・終わり・・・

 

 

 

 


依水園からの散歩道(上)=依水園~ささやきの小径・・・奈良市(改編)

2020-12-06 | 古道

同じ古都でも、京都と異なり、奈良には名勝庭園の数は多くありませんが、この庭園は奈良屈指の池泉回遊式庭園と言われ、借景の妙を味わえる名園です。

広い池のほとりに立って見渡せば、池に打たれた沢飛び石が、前景を引き締め、対岸には、こんもりとした築山。その向こうに、中景として東大寺南大門の瓦屋根と参道の並木、さらにその先には、遠景として若草山、春日山、御蓋山のなだらかな稜線の連なり・・・。

ここでは、庭の内と外との境界を意識することなく、視線がリズミカルに導かれ、雄大な広がりが目に飛び込んできます。それが借景の効果です。

依水園の総面積は約4、000坪。前園(下の写真)と後園(上の写真)から成り、前園は、江戸時代(17世紀後半)の作と伝わり、後園は明治32年、奈良の晒(さらし)業者、関藤次郎の構想に基づき完成されたということ。

前園と後園は景色の趣が違うのですが、風雅な滝組が、地形の高低差とともに、2つの景をつなぐ役割を果たし、全体として1つの大回遊式庭園をつくりだしています。

植物が冬枯れの今の時期は、庭を観賞するには、適していないと思われるかもしれませんが、実は庭の骨格を観賞するには、絶好の機会です。

依水園を拝観した後は、奈良公園に向かいます。奈良の市街地に隣接して、東西約4キロメートル、南北約2キロメートルの広大な面積を占めるのが奈良公園。若草山を背景に、東大寺、春日大社、興福寺、などなど著名な古社寺が点在しています。そうそう、人なつっこい鹿さんも有名ですね。

この奈良公園を散策しながらの寺社巡りもいいし、春日大社の二の鳥居から続く「ささやきの小径」を抜け、あと2キロほど先の白毫寺まで足を伸ばしても、味わい深い散歩になると思います。

上の写真は、春日大社の摂社、若宮神社前のクスノキの巨木。神功皇后お手植えの木と伝わるもの。奈良を歩くと、古代にまで遡る土地の記憶の豊かさを実感します。

そして下の写真、鬱蒼とした森の中に延びる1本の小道は、かつて春日の神官たちが、春日大社に通った道で、「下の禰宜(ねぎ)道」が正式名称ですが、誰がつけたか、「ささやきの小径」と呼ばれています。

春日山原生林の裾野に位置するこの森は、古代からのカシやシイの巨木が繁茂し、春にはアセビの花が足元を彩るという照葉樹林。密生した樹木に陽光も遮られ、昼でも薄暗い中、時折、差し込む木洩れ日が、名画に見るような光と影のコントラストを演出します。

 

500メートルくらいの小道ですが、行き交う人も少なく、繁茂した木々が空気を浄化してくれるのでしょうか、清澄な空気に満たされ、心が癒されます。

・・・つづく・・・