日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

善福寺の「逆さ銀杏」=巨木の話(4)・・・東京都(改編)

2021-09-30 | 巨木・御神木

子どもの頃、近所にある樹齢1、000年というご神木を見て育ったせいか、今でも巨樹を見るのが大好きです。

山奥や深い森にある巨木は、もちろん魅力的ですが、私が、より親しみを感じるのは、人里にあり、人間の歴史を見つめてきた樹木です。

今回の「逆さ銀杏」は、東京・麻布の善福寺の境内に聳えています。

麻布十番界隈は、江戸時代から栄えていた街でしたが、昭和47年に都電が廃止されてからは、交通の便が悪くなり、地下鉄南北線や大江戸線が開通し、麻布十番駅が誕生するまでの約30年間は、都心にありながら「陸の孤島」とも呼ばれる、時代に取り残された街だったとか。

しかしそれ故に、街は独自に個性的な商店街を発展させ、江戸や明治時代創業の老舗と、お洒落な店が混在して軒を連ねる麻布十番商店街は、今、世代を超えて、人々を惹きつけているそうです。

上の写真は、商店街のポケットパークの一画に立つ「きみちゃん像」。野口雨情の童謡「赤い靴」のモデルになった少女の悲話を伝えています。

商店街を抜けたところにあるのが善福寺。都内では、浅草寺に次ぐ最古の寺院という名刹です。ここには幕末から明治8年(1875)まで、アメリカ公使館が置かれ、タウンゼント・ハリス初代アメリカ公使らが居住したそうです。山門前のハリス駐在記念碑が、維新史の一端を物語っています。

その境内に大きく枝を広げるイチョウは、樹齢750年、幹回りが10.4メートル。都内最大のイチョウの木ということで、国の天然記念物に指定されています。昭和20年の空襲で焼けて、高さが3分の1ほどになったそうですが、今も健在。何本もの気根が垂れ下がった幹には、風格が感じられます。

親鸞上人が地面に挿した杖が根付いたという言い伝えにより、「杖銀杏」の名があり、また、ツララ状の枝(気根)が何本も垂れ下がっていて、根が上の方にあるように見えることから「逆さ銀杏」とも呼ばれ、麻布七不思議の1つに数えられています。

 


善通寺の2本の大楠=巨木の話(3)・・・香川県善通寺市(改編)

2021-09-24 | 巨木・御神木

四国霊場第75番札所・善通寺は、真言宗の開祖・弘法大師空海の御生誕地。唐より帰朝した大師によって、大同2年(807)に、真言宗最初の根本道場として建立され、創建1200年を経た名刹です。

(上: 善通寺山門)

名物・讃岐うどんもまた、大師が唐で、うどんの製法を学び、農民に伝えたのが始まりとか

(上: 善通寺五重塔)

お遍路さんの姿が目立つ境内では、高く聳える2本のクスの巨樹に圧倒されます。高さは、並び建つ五重塔にも負けないくらいで、空を覆う樹冠は森のような存在感。

1本は「五社明神大クス」で、樹高40メートル余り、枝張りは37メートルとあります。ちなみに五重塔の高さは、46メートルだそうです。

(上: 五社明神大クス)

もう1本は「大グス」と呼ばれ、「弘法大師誕生の時より繁茂していた」と伝わるもの。樹高29メートル、枝張り27メートル。樹齢は千数百年と言われるだけに、うねりながら伸びる幹には、太古の息吹が感じられるよう。(下の写真)

 

(上: 大グス)


首かけイチョウ=巨木の話(2)・・・東京都(改編)

2021-09-19 | 巨木・御神木

多くの巨木には、様々な伝承やエピソードが伝わっています。

それらによって、巨木は、太さや高さといった外観以上の存在感を私たちに与えている気がします。

この「首かけイチョウ」という、なんだか不気味な名前のイチョウの巨木も、その一つ。

 このイチョウは、日本初の「洋式庭園」として知られる日比谷公園(東京都)にあります。

日比谷公園が開園したのは、明治36年(1903)のこと。公園の設計の中心となったのは、林学博士・本多静六氏です。

日比谷公園というと、開放的な芝生広場や華やかな花壇がイメージされますが、意外に緑が濃いことに驚かされます。

上の写真は鶴の噴水。公園の装飾用噴水としては、日本で3番目に古いということ。

また、江戸城の石垣を景に組み入れるなど、和風の趣が見られる景もあります。(下の写真)

そして「首かけイチョウ」。このイチョウの木は、それまで公園の外の日比谷交差点付近にあったそうですが、開園の2年前の明治34年、日比谷通りの拡張に邪魔という理由で、伐採されることになったのでした。

しかし、本多静六氏が伐採中止を要請。移植は困難という意見に対し、「私の首を賭ける」と言って、園内に移植したそうです。

現在、「首かけイチョウ」は、幹周り:6.5m、 樹高:16m。推定樹齢は、300年。

100年の歴史を背景に、巨木の多い日比谷公園の中でも、シンボル的存在として、公園の中央部にあるレストラン「松本楼」のかたわらに、どっしりと鎮座しています。

開発の妨げになるという理由で、市街地や近郊の巨木がどんどん切られていく現在、この「首かけイチョウ」のエピソードは、私の中で、ますます印象深いものとなっています。

 

 

 

 


婆々杉=巨木の話(1)・・・新潟県弥彦村(改編)

2021-09-10 | 巨木・御神木

巨木を見るのが好きです。巨大な木のそばに立つと、その内側から「気」のようなものが発っせられているのを感じます。

そうした感覚は、子ども時代の環境によって育まれたのだと思います。私の住んでいた家の近くに、そういう木がありました。

「婆々杉(ばばすぎ)」という杉の巨木です。案内によれば、目通り周10メートル、樹高約40メートル、樹齢1000年ということ。

弥彦には越後一宮である「弥彦神社」という、由緒ある神社がありますが、その近くにある「宝光院」というお寺の境内の奥に、その杉はあります。

婆々杉」には伝説があり、子どもの頃に聞いた話では:

昔、おばあさんが、村の子どもを攫(さら)っては、その杉の木の上で食べていた。ある時、この地を通りかかった旅の僧が、村人からその話を聞き、僧は、おばあさんの子どもを隠してしまった。子どもが見えなくなって、悲嘆にくれたおばあさんに、その僧は、子どもを亡くした親の悲しみを説き、おばあさんは、改心し、以後は妙多羅天女として、子どもを守ることになったとさ。

というものでした。しかも、そのおばあさんの子孫は、わたしの家の近所に住んでいて、そこのお姉さんと遊んだこともあります

この伝説はかなり身近な話だったので、何10年経った今でも、自信を持って語れるのですが、しかし、最近、「婆々杉伝説」について、村で発行している冊子を読んだところ、子どもを攫って食べたという件は、カットされ、マイルドな話になっていました。これも時代の風潮でしょうか?

(ただ、後年知ったのですが、婆々杉伝説については、他にも説があり、いろいろなバージョンがあるようです。)

 


出雲大社(下)・・・島根県出雲市(改編)

2021-09-02 | 神社

前回は、本殿正面からの参拝までをご紹介しましたが、その後は、囲いの西側に出て、そこからも参拝。(下の写真)それが正式なお参りの仕方なのだそうです。そして、出雲大社の参拝作法は、一般の神社とは異なり、「二礼四拍手一礼」。

(下: 本殿の屋根。屋根の千木(ちぎ)に穴が開いているのは、風圧を少なくするため)

出雲大社は「縁結びの神様」としても有名ですね。お願い事をした後は、おみくじをひく人も多いのでしょうか?

(上: おみくじが、ぎっしり結ばれた木)

本殿の西側ある「神楽殿」。その正面にある「注連縄(しめなわ)」は日本一の大きさと評判の注連縄で、長さ13m、周囲9m、重さ5トンという巨大さです。(下の写真)

 

ところで、国歌『君が代』の一節に、「さざれ石の巌(いわお)となりて・・・」という歌詞がありますが、駐車場の前にあるこの岩。一見、一つの岩のようですが、近づいてよく見ると、確かに小さな石(さざれ石)が集まってできています。(下の写真)

(上: さざれ石が巌に・・・)

学名は、「石灰質角礫岩」で、長い年月の間に溶解した石灰岩が、多くの小石を集結して次第に大きく生長したもので、まことにめでたい石であると、説明にありました。岐阜県揖斐川町で発見され、奉納されたものだそうです。

参拝の後は、参道から延びる「神門通り」を歩けば、出雲の名物・名産品を売る店が、ずらりと並んでいます。

終わりに・・・

出雲大社の起源を辿ると、その昔、北陸から西日本にかけて、広大な領域を支配していた下界の出雲国に対し、天照大神が治める天界の一族がその勢力を伸ばして来ます。そこで出雲国の王であった大国主大神が、「国譲り」を条件に造営させたのが、出雲大社であると伝わっています。

この神話は、各地に伝わる鬼退治や怪物退治の伝説と重なり、大和王朝が全国統一の過程において、様々な土着の民族を征服していった歴史を窺わせるのではないでしょうか。