日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

八王子の『絹の道』・・・東京都八王子市(改編)

2022-07-02 | 古道

先日、NHKの「ブラタモリ」という番組で、八王子市が紹介されました。その中で、下の写真の石段の途中からの眺めも登場したのですが、ここは、八王子市にある歴史の道「絹の道」の、一方の起点です。

(上: 住宅街のはずれにある石段を上った高台が、「絹の道」のはじまり)

その道は、横浜が開港した江戸末期から、鉄道が発達するまでの明治時代中期にかけて、当時の主要輸出品であった生糸が運ばれ、周辺地域の生糸商人の繁栄を今に伝える道です。

しかし、番組のテーマ『八王子はなぜでかい?』とは、関係がなかったので、そこで終わってしまいました。

ちょっと残念だったので、その道の続きを、ここでご紹介したいと思います。

八王子と横浜を結んだその街道は、現在は、大部分が開発によって失われてしまいましたが、そのうちの八王子に残る約1.5キロの道が、「絹の道」と呼ばれ、当時の面影を残す歴史の道に指定され、散策コースとして親しまれています。

それは片倉台という住宅地のはずれの丘の上から唐突に始まります。

(上: 高台からの眺め)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(上: 道は尾根づたいに続く)

少し歩くと、旧道了堂の跡地を整備した大塚山公園。

しかし、公園といっても、あまり人気(ひとけ)はなく、さらに、ここは、ずいぶん前のことですが、殺人事件の犠牲者が、ここに埋められているのが発見されたということで、一時期、「心霊スポット」として有名になったところでもあり、そのせいか、昼間でも、一人だとちょっと不気味。

 

(下: 生糸商人の衰退とともに廃寺となった道了堂跡)

 

 

 

 

 

 

 

 

公園を過ぎると、小径は竹林や木立の間を抜けて行き、「絹の道」コース中のハイライトです。晴れの日は木洩れ日が美しく、風が木立を抜ける葉擦れの音にも風情を感じます。

 

(上: 雑木林の中を行く、「絹の道」のハイライト)

 

(下: 「絹の道」といえば、この光景)

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、時々訪れていたその道を、トロイアの遺跡の発掘で知られる、ハインリッヒ・シュリーマンも通ったことがあると、ある時、友人から知らされ、びっくり。

その頃、シュリーマンは、国際的な大商人として巨万の富を築き、世界旅行をしていて、その途中、中国および幕末の日本を訪れたということです。シュリーマンが日本にやって来たのは、1865年6月1日。約1ヶ月間の滞在中に見聞した、当時の江戸の街や日本社会、文化、人々の様子などが、『シュリーマン旅行記 清国・日本』(講談社学術文庫)に詳しく描かれています。

その中に、次の一文があります。

「横浜滞在中、あちらこちらに遠出をしたが、特に興味深かったものに、絹の生産地である大きな手工芸の町八王子へイギリス人と6人連れ立って行った旅がある」

その時に通ったのが「絹の道でした。旅行記にある「田園はいたるところさわやかな風景が広がっていた。高い丘の頂からの眺めはよりいっそう素晴らしいものだった・・・」というあたりが、今見る「絹の道」からの景色でしょうか?

 

(上: シュリーマンも、ここから眺めた?)

 

今まで見てきた何気ない風景が、こうした土地の記憶を知ると、ちょっと特別なものに見えるから不思議です。 

ちなみに、シュリーマンがトロイアの遺跡の発掘に成功したのは、この旅の6年後のことだそうです。

 

「絹の道」の終点には、「絹の道資料館」があります。生糸商人の屋敷をイメージした入母屋造りの外観を持ち、絹の道の繁栄を物語る資料の数々が展示されています。入館料は無料で、休憩所もあります。

(上: 絹の道資料館入口)

(上: 当時の資料が展示された「絹の道資料館」。しかし、残念ながら、シュリーマンの記録はありませんでした)

以上、なかなか心地よい散歩コースなのですが、私が辿った順路は、道の起点が分かりにくいのが難点です。JR横浜線片倉駅から徒歩10分くらいですが、起点に至る道筋には道標がありません。

従って、初めての方には、ここでご紹介したのとは逆の、「絹の道資料館」からの出発が、分かりやすいと思います。ただ、散策コースとしては、片倉台側からの方が、私は好きですが・・・。

 

* 「絹の道資料館」アクセス: JR・京王線、橋本駅から多摩美術大学経由「南大沢駅」行き、または京王線、南大沢駅から多摩美術大学経由「橋本駅」行きで、バス停「絹の道入り口」下車、徒歩10分

 


山岳信仰・羽黒山と名勝・玉川寺庭園・・・山形県鶴岡市(改編)

2021-07-18 | 古道

鶴岡の市内散策の後、鶴岡駅からバスで羽黒山に向かいました。

鶴岡の西方に聳える羽黒山は、月山、湯殿山とともに、出羽三山と呼ばれ、今から約1400年前の推古元年(593)、崇峻天皇の皇子である蜂子皇子が、3本足の霊鳥に導かれ、羽黒山に登拝し、山頂に祠を創建したのが始まりとされる、山岳信仰・修験の霊場です。

山頂までバスでも行けますが、足に自信のある方は、霊山の雰囲気を満喫するために、麓の「随神門」で降りて、歩いて登るのがお勧め。頂上まで延々と続く石段は、2,446段。途中、3ヶ所の急坂があり、かなりきつい道程ではありますが・・・。

(上: 杉の老樹の並木の中を2,446段の石段が続く羽黒山の荘厳)

随神門をくぐって、最初は下り。やがて清流に架かった赤い神橋を渡れば、いよいよ登り坂の始まり。すぐに一の坂。その手前の杉の木立ちの中に、まるで杉の精霊のように、古色を帯びて佇む五重塔は、平安時代(920年代)、平将門の創建と伝わるもの。国宝です。

五重塔近くに、天を突くがごとく聳える巨大な杉は、樹齢1000年と言われる「爺杉」。私の故郷に聳える巨杉「婆杉」とオーバーラップするのでした。

(上: 呼応するかのように並び立つ「爺杉」と五重塔)

樹齢300~500年という杉の老樹が立ち並ぶ中を、はるかに延びる石段。見上げれば、ほとんど垂直かとも思える急坂。苔むして滑りやすいところもあるので慎重に。二の坂を登り切ったところには茶屋があります。そして最後の三の坂を登れば、まもなく山頂。約60分の道のりでした。

山頂には、月山・羽黒山・湯殿山の三神を合祭した社殿があります。月山と湯殿山は、冬期には積雪のため参拝できないことから、ここに三神を祀るようになったと伝わっています。

(上: 羽黒山山頂の三神合祭殿。茅葺き屋根の巨大さが圧倒的)

神仏習合の名残を伝える権現造りの社殿は、見た瞬間、ほーっと声が出るくらいスケールの大きな建物で、特に東北随一という茅葺き屋根の大きさには圧倒されます。なにしろその厚みは、2.1メートルといいますから・・・。

帰り道に出会った山伏の行列の中には、外国人もちらほら。修験道の国際化を実感しました。

 

そして、羽黒山まで来たら、ぜひとも立ち寄りたいのが、山裾にある玉川寺(ぎょくせんじ)。庭園が名勝に指定されています。交通の便があまり良くないのですが、麓からタクシーで5分くらい。バスなら「大鳥居」下車、徒歩15分くらいです。

寺伝によれば、玉川寺は鎌倉時代(1251)に、朝鮮百済国から渡来した了然法明禅師によって開山された曹洞宗の古刹。現在の規模は決して大きくありませんが、山門からすでに、そこだけが別世界のような、幽玄の雰囲気を漂わせ、その由緒の確かさを物語っているかのようです。

庭園は池泉回遊式蓬莱庭園と呼ばれる様式。本堂とそれに連なる書院・茶室の前に広がっています。横長の池の対岸の築山は、背後の裏山に続き、開山堂に通じる石段が、木間隠れにちらちら見えます。

池前の飛石の中に据えられた巨大な礼拝石。向こう岸には、それと対峙する立石。池には、3つの島があり、それぞれが目立たないけれど風情のある橋で連結され、滝石組や護岸の石組などで形成された複雑な汀線が、景を豊かにしています。

池の中に点々と配された夜泊石(よどまりいし)は、蓬莱思想を象徴するもので、理想郷である蓬莱山へ向かうための船の一団が、夜、船溜りに停泊している姿を表現しているそうです。

手入れもよく行き届き、ピーンと張りつめたような静寂境に、心が洗われるようです。室町時代にあった庭園を、江戸時代初期に、羽黒山の別当だった天宥が改修したといわれています。

玉川寺を出たら、遙か彼方に見える赤い大鳥居を目指して歩けば、鶴岡駅へのバス停まで迷う心配はありません。見渡す限りの庄内平野と、頭上の広い空が心地良い、一日の終わりでした。

 * アクセス・拝観などは、最新の情報をご確認ください

 

 

 


依水園からの散歩道(下)=志賀直哉旧宅、新薬師寺、白毫寺・・・奈良市(改編)

2020-12-11 | 古道

前記の「ささやきの小径」を抜けると、志賀直哉が昭和初期に移り住んだ住宅があり、公開されています。奈良の自然や文化を愛した文豪・志賀直哉が、自ら設計したという家で、数寄屋造りを基調としながら、洋風のサンルームや娯楽室を付加するなど、和と洋のスタイルが調和し、彼の趣味が窺えます

庭もまた、建物に合わせ、樹木の多い和風の庭と、サロンに面した明るい芝庭とで構成。『暗夜行路』などいくつもの作品が世に出され、文人、画家たちが集まるサロンにもなった家です。

志賀直哉旧居のあるこの界隈は高畑といい、鎌倉時代頃から春日大社の神官たちが住み始めたという社家町。

 

趣のある土塀や築地塀に囲まれた閑静な住宅街を10分程歩くと、新薬師寺。

新薬師寺は、創建が天平19年(747)という古刹。当時は東大寺とともに、南都十大寺の1つに数えられた大伽藍を備えていましたが、現在残る天平建築は本堂(国宝)のみ。

本堂は、創建当初は食堂だったという建物で、こじんまりとしていますが、瓦屋根の線がのびやかで、どっしりと安定感があり、正面の石燈籠とともに、品のある姿が印象的です。

内陣に安置された諸仏は、本尊薬師如来坐像(国宝)、十二神将像(国宝)など。特に十二神将像は、わが国最古最大のものということで、本尊を円形に取り囲んだ様は迫力満点。

中でも「バザラ大将」(上の写真=パンフレットより)は、旧500円切手の図柄にもなっている有名な像で、まさしく「怒髪天を衝く」姿には圧倒されます。

新薬師寺の裏手には、黒川紀章設計の「入江泰吉記念奈良市写真美術館」があり、大和路の風景や人々の暮らし、仏像を、「心の原風景」として撮り続けた写真家・入江泰吉の作品が展示されています。

美術館の写真がオーバーラップする、のどかな風景の中を、しばらく行くと白毫寺(びゃくごうじ)です。白毫寺もまた、その歴史は8世紀初めに遡るという古刹。風化した土塀が風情豊かな石段を上り、境内に到れば、奈良市街が一望の下。

白毫寺は「花の寺」としても知られ、とりわけ「五色の椿」は、「奈良三名椿」の一つに数えられる樹齢400年の名木で、その名の通り、1本の木に5色の花が咲くそうです。花の見頃は3月下旬から4月上旬ということ。

石仏が並ぶ小径を辿り、宝蔵に入ると、本尊阿弥陀如来像(重文)をはじめ、平安・鎌倉期の仏像が安置されています。特に閻魔王坐像(重文)の憤怒の形相が豪快。

因みに、寺名になっている「白毫(びゃくごう)」とは、「仏の眉間にあり光明を放つという白い巻毛」のことだそうです。

・・・終わり・・・

 

 

 

 


依水園からの散歩道(上)=依水園~ささやきの小径・・・奈良市(改編)

2020-12-06 | 古道

同じ古都でも、京都と異なり、奈良には名勝庭園の数は多くありませんが、この庭園は奈良屈指の池泉回遊式庭園と言われ、借景の妙を味わえる名園です。

広い池のほとりに立って見渡せば、池に打たれた沢飛び石が、前景を引き締め、対岸には、こんもりとした築山。その向こうに、中景として東大寺南大門の瓦屋根と参道の並木、さらにその先には、遠景として若草山、春日山、御蓋山のなだらかな稜線の連なり・・・。

ここでは、庭の内と外との境界を意識することなく、視線がリズミカルに導かれ、雄大な広がりが目に飛び込んできます。それが借景の効果です。

依水園の総面積は約4、000坪。前園(下の写真)と後園(上の写真)から成り、前園は、江戸時代(17世紀後半)の作と伝わり、後園は明治32年、奈良の晒(さらし)業者、関藤次郎の構想に基づき完成されたということ。

前園と後園は景色の趣が違うのですが、風雅な滝組が、地形の高低差とともに、2つの景をつなぐ役割を果たし、全体として1つの大回遊式庭園をつくりだしています。

植物が冬枯れの今の時期は、庭を観賞するには、適していないと思われるかもしれませんが、実は庭の骨格を観賞するには、絶好の機会です。

依水園を拝観した後は、奈良公園に向かいます。奈良の市街地に隣接して、東西約4キロメートル、南北約2キロメートルの広大な面積を占めるのが奈良公園。若草山を背景に、東大寺、春日大社、興福寺、などなど著名な古社寺が点在しています。そうそう、人なつっこい鹿さんも有名ですね。

この奈良公園を散策しながらの寺社巡りもいいし、春日大社の二の鳥居から続く「ささやきの小径」を抜け、あと2キロほど先の白毫寺まで足を伸ばしても、味わい深い散歩になると思います。

上の写真は、春日大社の摂社、若宮神社前のクスノキの巨木。神功皇后お手植えの木と伝わるもの。奈良を歩くと、古代にまで遡る土地の記憶の豊かさを実感します。

そして下の写真、鬱蒼とした森の中に延びる1本の小道は、かつて春日の神官たちが、春日大社に通った道で、「下の禰宜(ねぎ)道」が正式名称ですが、誰がつけたか、「ささやきの小径」と呼ばれています。

春日山原生林の裾野に位置するこの森は、古代からのカシやシイの巨木が繁茂し、春にはアセビの花が足元を彩るという照葉樹林。密生した樹木に陽光も遮られ、昼でも薄暗い中、時折、差し込む木洩れ日が、名画に見るような光と影のコントラストを演出します。

 

500メートルくらいの小道ですが、行き交う人も少なく、繁茂した木々が空気を浄化してくれるのでしょうか、清澄な空気に満たされ、心が癒されます。

・・・つづく・・・

 


当尾石仏の道 (浄瑠璃寺~岩船寺)・・・京都府木津川市(改編)

2020-11-07 | 古道

極楽浄土を庭園の中に再現しようとした浄土式庭園。毛越寺とともに、当時の姿をよく伝えているのが浄瑠璃寺庭園(特別名勝及び史跡)です。

寺名にある「浄瑠璃」とは、太陽の昇る東方にある浄土のこと。その教主が瑠璃光如来、つまり薬師如来で、一方、太陽の沈む西方浄土(極楽浄土)の教主が阿弥陀如来なのだそうです。

平安後期いわゆる藤原時代に創建されたこの寺は、浄土思想に基づき、寺域の東側に薬師如来を祀った三重塔、西側に阿弥陀如来を安置した阿弥陀堂を配し、間にはゆったりと池が横たわっているという、浄土式庭園の代表作として知られています。

上の写真は、阿弥陀堂前から「宝池」越しに三重塔を眺めたもの。前景の石燈籠、中景の池と中島、後景の三重塔が有機的につながっています。また下の写真に見るように、中島の先端は、『作庭記』にあるような、荒磯風の洲浜と石組で構成されています。

現在の浄瑠璃寺は、山里の静寂の中に佇む小さな古寺ですが、そこは文化財の宝庫。木の間越しに端整な姿を見せる三重塔(国宝)。そして池の対岸の阿弥陀堂(国宝)には、九体の黄金の阿弥陀如来像(国宝)が祀られています。藤原期の九体仏が揃っているのは、ここだけということ。横一列に並んだ阿弥陀如来像の荘厳に圧倒されます。

さらに秘仏とされる吉祥天女像(重文)は、ため息ものの美しさ。毎年、春と秋と1月の秘仏開扉の際に拝観できます。(現在、11月30日までご開帳)

浄瑠璃寺から岩船寺に至る道は、「当尾石仏の道」として知られる古道(全長約5㎞)のハイライト部分。約2キロほどのハイキングコースになっています。

「当尾」と書いて、「とうお」とも「とうのお」とも呼ばれる地名の由来は、鎌倉時代後半の文献に「塔尾」として登場するところから、「塔の連なる尾根」からついた名であるという説もあります。

かつて、この地に仏教文化が栄えたことを想像させる地名ですが、それを証明するかのように、この道筋には、石仏や磨崖仏が、数多く点在しています。当尾地区全体では40数体あるという石仏のいくつかは、鎌倉時代、東大寺復興に関わった名工たちが刻んだものとか。

いろいろな表情の石仏を眺めながら歩けば、少々きつい坂も頑張れます。実は逆コースならば下り坂で楽だったのですが・・・。

そして最後に微笑んでくれるのは、当尾の石仏中の白眉と言われる「わらい仏」=阿弥陀三尊像=。(下の写真) その姿に、思わず、こちらも微笑み返し。

もし、ここを訪れる機会がありましたなら、その足元に、なぜか土の中に埋もれて上半身だけが覗いている「眠り仏」もお見逃しなく・・・。

ここから岩船寺までは、あとわずか。紫陽花寺としても知られる岩船寺は、天平時代、聖武天皇の発願により、行基によって阿弥陀堂が創建されたのが始まりという古刹。山里の奥深く、森閑とした境内に、三重塔の姿が艶やか。

(上:岩船寺三重塔)

 

*アクセス、拝観時間などについては、各寺院、または観光案内をご参照ください。