日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

京都・紅葉の中の名園(3)=平安神宮神苑(改編)

2021-10-29 | 日本庭園

「紅葉の中の名園」をテーマにご紹介していますが、たまたま、前回、前々回ともに、近代日本庭園の先駆者と呼ばれる「植治」こと、七代目・小川治兵衛の庭園になりました。そして、同じく小川治兵衛の代表作としてあげられる庭園が、平安神宮の中にあります。それが「平安神宮神苑」です。

平安神宮は、桓武天皇の平安遷都(794)から1100年を記念して、明治28年に京都市の総社として創建されたもの。社殿は、平安京大内裏の建物を模し、両脇に楼閣をもつ左右対称の建築様式。その壮麗さは、よく知られるところです。(下の写真)

しかし、その背後にある「神苑」は、案外知られていないようです。神苑の面積は、約30,000平方メートル。境内をぐるりと取り囲んで、南・西・中・東の4つに区分されています。

四季折々の風情を大切にした構成で、「南神苑」は紅しだれ桜の庭。一般的にはこの庭が、もっともポピュラーかも。続く「西神苑」は花菖蒲の庭。ショウブ田や水草が生い茂る池を中心に深い緑が周囲を覆っています。(下の写真)

(上: 深い緑に囲まれた安らぎの空間)

そしてその先にあるのが、西神苑とともに、平安神宮創建時に作庭されたという「中神苑」。そこでの景の中心をなすのが、「臥龍橋」と呼ばれる沢飛石です。(下の写真)

この沢飛石は、天正年間に豊臣秀吉が造営した三条、五条両橋の橋脚を利用したものだそうで、 神苑ひいては小川治兵衛の庭の象徴的景観として、造園の教科書にも載っています。様々な角度から眺めて、なお見飽きない、見事な配列です。

(上: 石の配列の妙を見る)

最後に辿り着く「東苑」は、明治末~大正初期につくられた庭です。広々とした池に、京都御所から移築した泰平閣という橋殿を架け、鶴亀に見立てた中島を浮かべて、大らかで優美な景観を創出しています。そして、それらが水面に映る姿によって、魅力は倍増。

 

(上: 池に架かる橋殿が優美)

(上: 橋殿越しに眺めると、額縁効果で、一幅の絵のよう)

(上: 池に浮かぶ鶴島)

(上: 水面が美しい風景を映し出している)

平安神宮神苑は、明治27年末から大正5年までという、20年余の歳月をかけて完成されました。小川治兵衛は、この仕事によって、造園のの「総合プロデューサー」としての才能を余すことなく発揮し、公共造園においても、その地位を確立したということです。

 

 


京都・紅葉の中の名園(2)=対龍山荘庭園(改編)

2021-10-24 | 日本庭園

前記の無鄰菴(むりんあん)庭園の後、小川治兵衛は、風光明媚な南禅寺周辺に、琵琶湖疏水の水を引き込んだ別荘庭園を次々に造営しましたが、この「對龍(たいりゅう)山荘」は、中でも名園として知られているものです。しかし残念ながら、基本的に非公開です。

たまに特別公開があり、ここにご紹介するのは、その際に訪れた時のものです。

對龍山荘は、右京区の南禅寺の門前にあります。元は薩摩出身の伊集院兼常が開いた屋敷で、その後、呉服商として財を成した市田弥一郎の所有となり、明治35~39年(1902~1906)に、小川治兵衛により庭園の改修が行われました。

母屋の東に広がる約5000平方メートルの庭園は、敷地の高低差を巧みに利用し、池を中心とする北側部分と、流れを中心とする南側部分とで構成されています。

(上: 東山連峰を借景に、奥深い景が創り出されている園池)

最初に目に入るのが、北側の大部分を占める園池。複雑な汀線を持ち、切石と沢飛石によって導かれる中島、かなり落差のある大滝、水に浮かぶ小舟、奥に垣間見える水車小屋と、変化の多い景色で、どこを切り取っても絵になりそう。

次は、池と建物の間の細い園路と沢飛石を伝って南に上がって行きます。途中、書院の角には、その段差を利用して、2メートルほどの高さの縁先手水鉢が据えられ、見どころの一つになっています。

 

南側は、茶室に面した流れ蹲踞から始まる流れの庭です。苔と芝生に覆われた、緩やかな起伏を走る流れと小砂利の園路。そこには無鄰菴に通じる、いかにも軽快な小川治兵衛らしい庭の景がありました。

(下: 緩やかな起伏の敷地に、小径と流れが交差する南側部分)

(上: 小川の中に配した「流れ蹲踞」)

(下:「水のマジシャン」と言われた小川治兵衛の流れの構成は必見)

 

 

 

 

 

 

 

(下: 建物と庭の調和)

 

その後、木の間越しに数寄屋建築を見て、先に進むと、園遊会のための芝生広場があり・・・

(上: 木立の中を抜けると眼前に広がる明るい芝生の庭) 

さらに池を半周して元の位置に戻れば、満足感でいっぱいの、変化に富んだ池泉回遊式庭園です。

 

ちなみに近くには、同じく小川治兵衛の代表作として知られる「野村碧雲荘」がありますが、こちらも通常非公開です。どちらも明治時代の代表的な別荘庭園なので、時々は、是非一般公開してほしいものです。

 

※ 小川治兵衛は、琵琶湖疏水の水を庭に導入して、数々の名園を残しましたが、その先駆けと言われる庭園が、「並河靖之七宝記念館庭園」(京都)です。これについては、本ブログ『並河靖之七宝記念館=記念館の庭(2)(2021-2-11)に書きましたので、よかったらご参照ください。

 


京都・紅葉の中の名園(1)=無鄰菴庭園(改編)  

2021-10-20 | 日本庭園

明治以降の庭を語るのに欠かせない造園家が、近代造園の先覚者と呼ばれる小川治兵衛・通称「植治」です。そして小川治兵衛を語るのに欠かせないのが、その作風を方向づけた「無鄰菴庭園」です。

「無鄰菴」は、明治27~29年(1894~96)に、時の元老・山縣有朋が、造営した別荘で、南禅寺の近くにあります。その名の由来は、有朋が出身地の長州(現・山口県)に建てた草庵が、「隣家のない」閑静な場所であったことに因んでいるということ。

敷地の大半を占める庭園(約3000平方メートル)は、有朋自らの設計・監督により、小川治兵衛が作庭し、彼の造園家としての地位を確立した代表作といわれるものです。

(上:歴史の新しい息吹が作庭にも反映されたかのような無鄰菴庭園)

私が愛読していた岡崎文彬編著『造園事典』には、この庭園が、次のように解説されています。「(琵琶湖)疏水に隣接した三角形の敷地を巧みに生かし、東山を背景とし、水の取水口には三段の滝を落とし、建物前面に開けた広い芝生地に、幅広くあるいは狭く、幾条にも流れを走らせて、明朗な景観にまとめている」。

写真では、よく見えませんが、上の写真のV字形の空のところに東山が借景として取り込まれています。

庭園に足を踏み入れると、緩やかな起伏のある芝生の庭に、さらさらと耳に心地よい小川の囁き。前方を見れば、木立の向こうに連なる東山連峰。

そこから、順路に従って、庭の奥に進めば、苔の緑が美しい雑木林の小径から、池のほとりに出ます。

入口付近からの眺めが、開放的な洋の風景だとすれば、そこは、樹木に囲まれた和の風景。澄んだ水面に映る木々の葉の美しさが印象的でした。

 

 

 

 

 

 

 

(上: 自然樹形の雑木が多く、紅葉が美しい)

小川治兵衛、37歳の作品です。


イチョウ・スギ・ケヤキ=巨木の話(終)・・・(改編)

2021-10-15 | 巨木・御神木

(Ⅰ)以前、「葛城古道」(奈良県)をご紹介しましたが、その行程の途中にあるのが「一言主(ひとことぬし)神社」。ここの神様は『古事記』に登場するともいう由緒ある神社です。その故事により、地元では、願いを一言だけ聞いてくれる「一言(いちごん)さん」として、親しまれているとか。

(上: 一言主神の霊が宿っていそうな大イチョウ)

一言主神社は、それほど大きな神社ではありませんが、その狭い境内を覆うかのように枝を広げているのは、樹齢1,200年という大イチョウ。高さは20メートルほどだそうですが、地上3メートルくらいのところの幹に、気根と呼ばれる突起が何十本も垂れている様が壮観。

(上: 大イチョウの幹の気根が見事)

突起が乳房のように見えるところから、「乳銀杏」と呼ばれ、安産の御神木になっています。

 

(Ⅱ)修験の山として知られる出羽三山(山形県)の1つ、羽黒山山頂に鎮座する「三神合祭殿」に至る参道は、延々と続く2,446段の石段。その両側には、杉の老樹が聳えています。

(上: 杉の老樹の並木の中を2,446段の石段が続く羽黒山の荘厳)

その参道の登り坂が始まるあたり、杉の木立の中に、まるで杉の精霊のように、古色を帯びて佇む五重塔は、平安時代(920年代)、平将門の創建と伝わるもの。国宝です。

 

そして、五重塔近くに、天を突くがごとく聳える巨大な杉は、樹齢1000年と言われる「爺杉」。この項の最初にご紹介した、私の故郷に聳える巨杉「婆杉」とオーバーラップするのでした。

(上: 呼応するかのように並び立つ「爺杉」と五重塔)

 

(Ⅲ)私の故郷には、もうひとつ、「婆杉」と並んで親しまれている巨木があります。「住吉神社」のご神木としてあるケヤキの巨樹です。

樹齢800~1000年、高さ30m、幹周り8m。

 巨大なタコが8本の足を広げたような枝振りを見せているところから「タコケヤキ」と呼ばれていますが、残念ながら、後年訪れた時には、タコの足にあたる枝は、伸びすぎたためか、途中で切られてしまっていました。

それでも、幹の巨大さと形は、大蛸のイメージを彷彿させますが、やはり足のないのが残念。

全国には、数々の由緒ある巨木があると思いますが、そうした巨木が、いつまでも健在であることを願っています。


日本一のナギの巨木など=巨木の話(6)・・・紀伊山地(改編)

2021-10-11 | 巨木・御神木

「熊野古道」として知られる古道が結ぶ、紀伊山地の霊場・「熊野三山」とは「熊野本宮大社」「熊野那智大社」「熊野速玉大社」という3つの神社の総称。

そして、古道のハイライトは、おそらく、落差133メートルという、直瀑としては日本一の落差をもつ雄大な「那智の滝」でしょう。

現在は丘の上にある那智大社の本宮は、昔、この滝の滝壺近くにあったと言われ、滝自体がご神体になっています。三山の社殿のうち、最も古式を保つ構造というのが、那智大社の社殿。

境内には、クスの巨木が天に向かって枝を伸ばし、8メートルという太い幹の根元には、人がくぐれるほどの空洞がありました。

 

(下: 三重塔と那智の滝のツーショット)

 

そして「熊野速玉大社」。熊野三山のうちの二社は山中にありますが、ここは海に近い平地にあり、これまでの二社とは異なる、明るい雰囲気が印象的。

 

発祥は、海の守り神への信仰と伝わっています。

境内には「ナギ」がご神木としてあります。推定樹齢1000年。平安末期に、熊野三山造営奉行を務めた平重盛(平清盛の嫡男)が植えたものと伝わり、ナギの木としては日本一の巨木と言われています。