日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

国営昭和記念公園・日本庭園---東京都立川市

2012-05-30 | 日本庭園

東京駅から中央線で約40分。立川市にある「国営昭和記念公園」は、昭和天皇御在位50年記念事業の一環として、米軍立川基地の跡地に建設されたもの。

計画面積は180ヘクタール。昭和58年(1983)に、そのうちの70ヘクタールが部分開園されて以来、順次、拡張整備が進み、現在は全体の9割、約165ヘクタールが一般に開園されているそうです。

とにかく広い!自然林と人工林が調和した広大な面積の中、「水のゾーン」、「広場のゾーン」、「森のゾーン」などのエリアに、様々なレクリエーション施設や大規模な花畑が点在しています。

その一画を占めているのが、平成9年(2007)に誕生した「日本庭園」です。6ヘクタールという敷地の中に、広々とした池泉回遊式の庭園が、ゆったりと横たわっています。

 (上: 江戸時代の大名庭園を彷彿させる「日本庭園」)

開放的な公園の中で、「日本庭園」は高生垣や土塀に囲まれた空間で、門をくぐれば、公園全体の「洋」の雰囲気が一変。「和」の世界が広がります。

 (上: 日本庭園の入口)

 (上: アプローチの傍らのボタン園)

入口近くの池畔には、数寄屋造りの茶室「観楓亭」と、風雅な四阿「清池軒」が並び建ち、そこから望む池の、のびやかな眺めが、公園歩きの疲れを癒してくれました。

(上: 流れの向こう、木間越しに見る観楓亭と清池軒)

 (上: 池に張り出した四阿「清池軒」)

 

 

 

 

 

 

 

(上: 「清池軒」から池を望む)

ここから順路に従い、時計回りに園路を進めば、池の眺めも様々に変化し、築山の方に目を転じれば、深い緑の中を縫うように、流れや滝の景が、次々に展開します。それが回遊式庭園の醍醐味です。

 

 

(上: 流れの表情も様々)

 

(上: 岬の景を前景に、南側の四阿「昌陽」を望む)

(上: 「昌陽」の隣には船着き場)

(上: 八つ橋のある菖蒲田)

(上: 季節の花も目を楽しませてくれる)

(上: 池に浮かぶ「亀島」。あまりにも具象的な形がご愛嬌。鼻先では、本物の亀が石の上で、「亀島」とにらめっこ)

(上: 四阿「昌陽」から池を望めば、一幅の絵のような眺めが広がる)

正直、一番最初にここを訪れた時は、まだ完成間近だったし、所詮、「公園の中の日本庭園」だから・・・と、あまり期待しないで入園したのですが、良い意味で予想を裏切られ、以来、私のお気に入りの場所になりました。

そして、15年後の今日、庭園はますます「熟成」され、季節毎に魅力的な眺めを見せてくれています。

園内には平成16年に「盆栽苑」もオープンしました。

(上: いろいろな樹木の、いろいろな樹形を鑑賞できる盆栽苑)

 

(上: 樹齢数百年の風格)

 *アクセスその他の情報は、国営昭和記念公園HPをご参照ください。

 www.ktr.mlit.go.jp/showa/

 


常栄寺雪舟庭園---山口市

2012-05-25 | 日本庭園

庭園紹介の前に、その背景にある山口の歴史を少し辿ってみます。14世紀半ば頃、周防・長門を統治することになった「大内氏」は、山口に居を移し、京都への憧れから、それをそっくり写すかのような国づくりを始めました。

以来200年間、中国・朝鮮との活発な貿易などにより、豊かな富を得た大内氏は、この地方に一大勢力を築きあげ、京の文化をすべて取り入れることに熱意を注ぐのです。

さらに、応仁の乱以後は、戦禍の京都を逃れてやって来る公家、文人、高僧も多く、「西の京」としての繁栄は頂点に達したのでした。

西国の雄として覇を唱えた大内氏でしたが、室町時代末期、陶(すえ)氏、毛利氏との戦いに敗れ滅亡します。広く外国にまで知られた華やかな街は炎上。大内氏に代わって統治者となった毛利氏は、関ヶ原の合戦で大坂方についたため、萩に移封されます。

山口はその後、歴史の表舞台から去り、再び注目されるのは300年後の幕末。維新の震源地としてです。

室町から幕末、この300年の空白の間に、大内文化の痕跡は、ほとんど消え去ってしまったといいます。わずかに往時を偲ぶよすがが、「瑠璃光寺五重塔」と「常栄寺雪舟庭園」。

「常栄寺」は今から500年ほど前、大内政弘の母の別邸でした。庭園は、政弘が当時中国から帰朝した「画聖・雪舟」に依頼して築庭させたと伝えられ、あたかも雪舟の山水画を立体化したような名園と評判の高いものです。

別邸はその後、妙喜寺、妙寿寺と名が変わり、明治時代に毛利隆元の法名から、常栄寺となりました

本堂に座して庭園を眺めると、一番手前は芝生に点在する石組群。その向こう、中央には心字池、右手奥には滝、背後の三方を高くして、自然の山林へ連続させる構成になっています。

(上: 「山林雲煙」の景を表現したという構成が見事)

前面の石組群は、中国の三山五嶽を象徴したとあり、線の鋭い石を用いることによって、屹立する山々がイメージされす。中でひときわ目立つのが、具象的な形をした「富士山」です。

 

(上: 中央左に「富士山」)

小路が庭の周囲に巡らされ、池泉回遊式庭園の魅力も味わえます。滝は「鯉魚石」を配した「龍門瀑」。座して眺める「観賞式庭園」では、なかなか間近に見ることのできない滝口ですが、ここではじっくり観賞することができます。(薄暗くて、写真に収めることはできませんでしたが・・・)

芝生面に、サツキとツツジの刈込み、周囲の木立ち、緑の中に存在感豊かに置かれた石の表情・・・。この庭を雪舟作とすることについては、否定的な意見も多いのですが、この時は、雨上がりの霧に包まれて、雪舟の表現しようとした「山林雲煙」の世界が、まさに眼前に展開しているように見えました。

(古庭園においては、歴史的名園でさえ、作庭者の記録がほとんど無いのが現状です。)

本堂南側には、現代造園の巨匠・重森三玲の昭和の石庭「南溟庭」があります。大海に浮かぶ仏国土を象徴した庭です。

*アクセス、拝観については、関連のHPをご参照ください:

yamaguchi-city.jp/details/ab_sesyu.html


旧岩崎邸庭園(1)---東京都台東区

2012-05-14 | 日本庭園

三菱の創始者・岩崎彌太郎は、幕末から明治への転換期、荒廃していく大名屋敷跡のいくつかを買い取り、修造し、名園を今に残しました。余談ですが、彌太郎は、若い時から庭園の趣味があったとか。

これまでに、このブログで、岩崎家関連の庭園のうち、清澄庭園」(4/21)、「六義園」(4/9)、「殿ケ谷戸庭園」(2011/7/6)をご紹介しました。(殿ケ谷庭園は、3代目岩崎久彌の長男・彦彌太が購入、整備)

それらは岩崎家の別邸として整備されたものですが、本邸となったのが、この「旧岩崎邸庭園」です。

実は名称は「岩崎邸庭園」となっていますが、庭園としては、それほど見るものはなく、ここの目玉は何と言っても「邸宅」です。濃い緑に覆われた門を入り、ゆるやかにカーブしたアプローチを上って行くと、ドームの屋根のあるクリーム色の洋館が、壮麗な姿を現します。

(上: ジョサイア・コンドルの傑作、旧岩崎邸の北側正面。ジャコビアン様式の特徴が見られる)

明治29年(1896)、三菱財閥三代目の当主・岩崎久彌が本邸として新築に着手したもので、広々とした芝庭の中に、洋館と撞球室(ビリヤード場)、和館があります。

洋館と撞球室の設計は、「鹿鳴館」や「ニコライ堂」をはじめ、数々の名建築を世に送り出し、日本近代建築の父とも呼ばれる、イギリス人建築家のジョサイア・コンドル。洋館に連結した和館は、名棟梁と言われた大河喜十郎が手がけたと伝えられています。

 

(上: 見る角度によって異なる外観が興味深い)

洋館は木造二階建て、地下室付きで、17世紀初頭のイギリスの「ジャコビアン様式」を基調とし、ルネサンスやイスラム風のモチーフも取り入れたデザインということ。

(上: 明るい日差しが降り注ぐサンルーム)

正面玄関から中の入ると、まず目を奪われるのは、扉や柱、階段の手摺りなど木の艶やかさと、そこに施された精緻な彫刻。ホールから、いくつもの客室、大食堂、書斎へと歩を進めれば、唐草模様が浮き彫りになった金唐皮の壁紙やペルシャ刺繍を刺したシルクの天井、イスラムのモザイクタイルなどなど、随所に配された凝った意匠は、ため息ものです。

---つづく---

 

 

 


高梨氏庭園(2)---千葉県野田市

2012-05-10 | 日本庭園

前記「構堀(かまえぼり)」から住居の方に回ると書院。書院前の庭の主木はカシワ。足元はツツジなどの刈込みを縫うように、飛石を配し、北側のタブの林を山に見立てているのが特徴的です。これは「北に山、西に森」という風水思想に基づいたものということ。

 

(上: 小山のような屋敷林)

園路はさらに続き、枝振りの見事なマツの脇を通り、渡り廊下の下をくぐって向う側に出ます。そこには由緒ある茶室の名を借りた残月亭という客間と、寒雲亭と呼ばれる若夫婦用の居室が並び建ち、風雅な佇まいを見せています。

(上: 枝振りの良い木が景色を創っている高梨家書院前の庭)

室内の見学はできませんでしたが(現在は、要予約で可)、覗き込むと、それぞれの建物の内部には、もてなし用の膳が並んでいたり、人形が飾られていたり、仕立物が広げられていたりと、今でもそこで暮らしが営まれているような設えがされていて、温かみを感じます。

豪商の暮らしに密着した建物と庭園は、代々の当主の好みによってつくられたもの。建築物でもっとも古いのは「門長屋」で、明和3年(1766)築。書院は文化3年(1806)築など、江戸時代から明治、昭和初期と、各時代の建物が、手入れの行き届いた趣ある庭園の中に、調和よく軒を連ねているのが心地良いことでした。

 

*庭園、室内拝観については、 「上花輪歴史館」のHPをご参照ください。homepage2.nifty.com/kamihanawa/

---終わり---