日本庭園こぼれ話

日本の歴史的庭園、街道、町並み。思いつくままに
Random Talks about Japanese Gardens

Hiraizumi's cultural heritage sites(1)

2011-05-30 | Japanese gardens

Congratulations! Finally, the historic sites in Hiraizumi will soon be placed on the UNESCO World Cultural Heritage List.

 

Hiraizumi is a town located in Iwate Prefecture in the northeastern part of Japan, a region known as Tohoku. Since the earthquake on March 11 caused extensive damage to people in Tohoku, the good news will cheer them up. 

 

Hiraizumi’s cultural heritage sites date back to the 12th century when the four generations of the Fujiwara Family ruled the region.

 

When the first lord Fujiwara Kiyohira united the region after a long period of local conflicts, he aimed at constructing a peaceful world evoking Buddhist paradise, and so he built the renowned Chusonji Temple complex including the famous Golden Hall with a group of golden Buddhist statues.

 

(Above: The approach to Chusonji)

 

 

(Above: The main gate of Chusonji and the main hall at the rear)

 

 

(Above: The small hall containing the Golden Hall)

 

 

(Above: A Part of the inside of the Golden Hall=from a brochure of Chusonji)

 

---to be continued--

 

 


祝・世界遺産登録「極楽浄土の再現=中尊寺」---岩手県平泉

2011-05-25 | 日本庭園

前回までにご紹介した毛越寺、観自在王院から、北へ約700メートル行ったところに、「中尊寺」の参道入口があります。

中尊寺は、藤原氏三代の大望であった楽土建設の原点となるもの。開山は毛越寺と同じく、9世紀半ば、慈覚大師と言われていますが、今に伝わる大規模な堂塔伽藍を整備したのは、11世紀末に、江刺から平泉に館を移した藤原氏初代「清衡」です。

(上: 老杉が並ぶ月見坂)

堂塔40余宇、僧坊300余という壮大な寺院群の中でも、白眉は1124年に完成した「金色堂」でしょう。金色堂への参道は、老杉の巨木が林立する月見坂。登り口に、弁慶の墓碑がひっそりとあります。かなりの急坂を上りきった平地に、本堂などいくつかの堂宇、塔頭が点在しています。

(上: 中尊寺山門とその先に本堂)

(上: 参道途中にある薬師堂。ご本尊の薬師如来像は、眼病にご利益があるといわれている)

中でも、中尊寺の地主権現である白山神社の境内にある、薪能で著名な能楽堂は、19世紀後半の再建ですが、桂離宮の評価で有名な建築家、ブルーノ・タウトが「この田舎風の典雅な建築物は、中尊寺で最も強い印象を与える」と絶賛したとか。

(上: 能楽堂)

そして「金色堂」。中尊寺創建当初の唯一の遺構ですが、長い歴史の間に荒廃していたものを、昭和の大解体修理により、かつての黄金の輝きを取り戻したのでした。現在は味気ないコンクリートの覆堂に囲われていますが、一歩足を踏み入れれば、燦然と輝く黄金の光がまばゆいばかり。

思っていたより、かなり小さいものでしたが、それ故にと言いましょうか、隅々まで張りつめた緻密な美の凝縮を、目の当たりにすることができます。

(上: 金色堂内陣の一部=小学館ウィークリーブック『古寺をゆく・中尊寺』より)

全体に金箔を押した、文字通りの金色のお堂、柱や須弥壇に施された精巧な螺鈿細工のきらめき、三基の須弥壇の上には、金色の阿弥陀三尊像を中心に、観音像、二天像、地蔵像などの諸仏が20数体安置され、まさに極楽浄土の再現。各須弥壇下には、藤原三代の遺体が納められているそうです。

(上: この覆堂の小さな空間の中に、地上に現出した黄金の極楽浄土が凝縮されている)

めくるめく黄金世界を拝観した後、外に出てもう一度振り返ると、折しも杉木立の間から差し込んだ陽光によって、あのコンクリートの覆堂の屋根が輝いて見えるではありませんか。芭蕉の「五月雨の 降り残してや 光堂」の句が思い出された一瞬でした。もちろん芭蕉が見たのは、本物の光堂だったのですが。

 


藤田記念庭園---弘前市

2011-05-10 | 日本庭園

弘前公園の近くには、前回ご紹介した「揚亀園」に加えて、もう一つ、見応えのある庭園があります。

公園の南西側、追手門の西にある「藤田記念庭園」です。弘前市出身の実業家・藤田謙一氏が、大正8年に別邸を構える際、東京から庭師を招いてつくらせたという庭園。その後、みちのく銀行の管理所有を経て、弘前市が、市政施行100周年記念事業として整備し、平成3年に開園したとあります。

総面積約21,800平方メートル(6,600坪)という広大な敷地は、高台部と低地部の2段構成で、高低差が巧みに利用されています。

(上: 入口前の洋館)

瀟洒な洋館に誘われて園内に足を踏み入れると、高台部は、広々とした芝庭で、木立がV字形になった視線の先に、岩木山が借景として雄姿を見せています。手前にはシダレザクラの巨木があるので、春の景色は格別のことでしょう。

(上: 写真では、見えにくいのですが、V字形の空間に、岩木山が見えました)

ここから斜面を下って行くと、崖地の部分を覆うシャクナゲの群落や、反り橋が景趣を添える滝を眺めながら、低地部の池泉回遊式庭園に至ります。13メートルの高低差を最大限に利用し、豪快かつ表情豊かに落ちてくる滝は、見応え十分。

(上: 高低差を利用した斜面の構成が見事)

そして滝の水は流れとなって、八つ橋の架かったハナショウブ園を潤し、池へと注いでいます。池では、中島や橋、玉石を敷き詰めた州浜と雪見燈籠などが景をつくり、池畔の大きな礼拝石、飛石などとともに、大石武学流庭園を彷彿させます。

(上: ハナショウブ園)

(上: 武学流を彷彿させる巧みな池畔の構成)

さらに高台部には、入口の洋館の他に、レンガ造りの倉庫を利用した考古館や書院造りの和館があり、また低地部には、茶屋「松風亭」があって、庭園の景と建物が相互に引き立て合っています。

こうした庭園構成美に加えて、ウメ、サクラ、ハナショウブ、シャクナゲ、紅葉と、四季折々の彩りが、目を楽しませてくれそうな庭園です。


大石武学流庭園「揚亀園」---弘前市

2011-05-07 | 日本庭園

前にご紹介した弘前市内散策の続きです。

弘前公園となっている弘前城の、水濠の東側に面してある観光施設「ねぶた村」。その中庭に、大石武学流庭園「揚亀園」があります。

庭園案内によれば、この庭園は、弘前の実業家・二代目中村三次郎が、明治25年から大正3年にかけて、大石武学流四代目宗家・小幡亭樹を招いて作庭、後に五代目宗家・池田亭月が、手を加えたとされています。

面積は約1,800平方メートル(545坪)。複雑な汀線を持つ池を中心にした回遊式庭園で、武学流の特色とも言える巨石の礼拝石が、池畔に据えられています。

背後の茶室は「揚亀庵」といい、大正8年に、市内の呉服商の離れ座敷を移築したもの。

茶室前の沓脱石から、池畔の礼拝石に向かって、大ぶりの飛石が、広い間隔で打たれているのも、武学流の特徴であり、重厚感を増しています。

(上: 茶室前から池畔の礼拝石へと続く飛石)

池に目を向ければ、対岸の築山に枯滝と枯流れの石が組まれ、樹間から見える岩木山と、弘前城の老松が、借景として取り込まれています。

(上: 後方、弘前城の老松が庭園の景に溶け込んでいる=岩木山は、あいにく写真に写りませんでした)

その他、雪見燈籠や主木としての傘形のクロマツなど、随所に大石武学流独特の景観が見られます。

(上: 池に突き出た岬の景)

商業施設の賑わいの中にあるので、以前ご紹介した名勝指定の大石武学流庭園(清藤氏書院庭園、盛美園、瑞楽園)に比べると、静寂感とか重厚感には欠けますが、武学流庭園の意匠または構造面の特徴となる造形をよく遺しているとして、国の登録記念物に指定されています。


Tsunami and the Bay of Matsushima

2011-05-02 | ...and all the others

I have watched and read a lot of news about the disaster since March 11.

 

15,000 people died by the disaster. And there are 14,000 people who are still missing. 130,000 people lost their houses.

It is said that 96 percent of them are victims of the tsunami.

 

I really realized how destructive tsunamis are. People living in the disaster-stricken areas must have already known this, because their town had been stricken by terrible tsunamis several times in its history.

 

「てんでこ(Tendeko) is said to be a kind of spell to save their life from a tsunami. It is the word which has been passed on from their ancestors from generation to generation; it means, “Each one must run away to a higher place as soon as possible by himself/herself. Do not return to help someone”.

 

It seems to be heartless, but in a town, people kept the word and as the result, most of people survived.

 

On the other hand, in an other town, they built a 10-meter high breakwater to protect the town against tsunamis. They boasted of it and they believed they would be safe.

 

So when the tsunami came, many people among them didn’t act at once and stayed there for a while.

 

But the tsunami easily came over the breakwater. It was too late for the people to run away. Most of the people were drowned.

 

Talking about breakwaters, one topic impressed me.  

 

Coastal areas in the Tohoku district were almost completely destroyed by the tsunamis. However, the Matsushima area was hardly damaged.

 

Matsushima is famous for its beautiful bay dotted with more than 260 islets. So it is said that each islet served as a small breakwater, and the power of the tsunami died down.

(Above: Matsushima Bay dotted with islets)

 

I don’t know exactly what I want to say with this. But I think it might be some hint when they think about constructing a breakwater in the future.

 

 

 

 

 

 

(Above: Each islet in the bay served as a small breakwater)