
「社員がイキイキ働くようになる」仕組みと研修を提供する人材育成社です。
かねてより、コミュニケーションにおいて「傾聴」することはとても大切であると言われています。文字が示すとおり、「傾聴する」とは話し手の言いたいことを言葉や態度で丁寧に示しながら聴くことです。たとえば話し手と視線を合わせたり、頷いたり、相槌を打ったり、さらには表情や声の調子も使って「おっしゃりたいことは○○ですね」などと言うことも有効な傾聴の手段です。
そして、この傾聴の必要性は一対一のやりとりにおいてだけでなく、一対複数であっても同じことが言えると思います。たとえば、私が担当させていただく研修の中で複数の受講者に対して講義をする際にも、頷くなどで受講者が傾聴をしてくれていることが確認できると、話がきちんと伝わっていることがわかるため、安心して先に進めることができると感じています。
しかし、頷くなどしっかり傾聴をしているように見えている受講者であっても、いざ演習を始めるとこちらの指示とは全く違う作業を始めてしまうなど、実は話をちゃんと聴いていなかったのかもしれないと思うような人に出会うことがあるのというのも、また確かです。
そうしたところ、先日(4月21日)の日経新聞に「日本人は頷くだけでなく、動作や言葉で共感をちょくちょく示すことで、相手に聞いていることや、『話に夢中になっています』」と意思表示す人が多い」という記事が載っていました。それから考えると、研修中に「うんうん」と頷いたり、盛んに相槌を打ったりする受講者が多いということは、日本人だからこその特徴ともいえるのかもしれません。
それでは諸外国と比べて、なぜ日本人には頷いたり共感を示したりする人が多いのでしょうか。
これについては、私は以前読んだ書籍(斎藤環 2013 『承認をめぐる病』 日本評論社)に一つのヒントがあるように感じています。著者の斉藤環氏は精神科医ですが、この本の中で「現在の日本はコミュニケーション偏重主義であり、学校や職場における対人評価はコミュニケーションカの有無で決定づけられていると述べています。さらに、ここでいうコミュニケーションとは論理的・言語的な能力というよりは、「空気を読む」「笑いをとる」「他人をいじる(操作する)」といった能力であり、このような傾向のもとで社会的承認がそのまま適応度を決定づけるという奇妙な事態が進行しつつあり、他者からの承認が得られなければただちに居場所や職場を失うということを意味するとも述べています。これらをふまえ、斎藤氏は情報量の低いやり取りを「毛づくろい的コミュニケーション」と表現されていました。
そのように考えると、日本においては空気を読むなどによって他者からの承認を得ることが何よりも優先されるあまり、必要以上に頷いたり共感を示したりするようになった人が多いということなのかもしれません。
仕事をはじめ人間が生きていく様々な場面においては、他者とのコミュニケーションがもちろん必要であり、その中で他者からの承認を得ていくということが大切であることは言うまでもありません。一方で他者からの承認を求めすぎるあまり、他者と考えが異なり意見を交して調整することが求められるような場合であっても、必要以上に頷いたり共感を示すことで結果的に本来必要なコミュニケーションを妨げてしまうようなことは、本末転倒であると言わざるを得ない状況です。
必要以上に頷いたり共感を示したりするということとコミュニケーション力が高いということとは、異なるものであるということをしっかり理解しておかなければならないと改めて考えています。