中小企業のための「社員が辞めない」会社作り

社員99人以下の会社の人材育成に役立つ情報を発信しています。

終身雇用という言葉に対する誤解

2014年06月29日 | コンサルティング

終身雇用については「古い制度」、「昭和モデル」などと揶揄されることが多いようです。「一度雇われてしまえば一生安泰なので、働く意欲が失われる」というのが終身雇用に対する一般的な批判の言葉です。

終身雇用の無い社会では、どのようにキャリアを積んで行くのかといえば、「自己責任で自分のスキルを高めよ」そして、「賃金に見合った成果を常に出し続けよ」ということになると思います。こうした「自己責任+成果主義」は、基本的には経済学の市場原理(マーケットメカニズム)の考え方に沿ったものです。そこには、全ての個人は完全に独立した(超)合理主義者であるという前提があります。

しかし、現実の社会を見れば、それが事実ではないことは明白です。

組織で働くということはチームで仕事をすることです。個々人のスキルの単純な総和以上の力を生み出す仕組みが、組織にはビルトインされています。つまり、組織(特に会社)は、一種のソーシャルキャピタル(社会関係資本)を生み出すシステムだということです。

労働市場での評価が低いある人物がいたとします。彼は専門知識や技能、資格といった測定可能な能力は持ち合わせていません。ところが、あるチームの中に入れば、メンバー全員をまとめて、強大なチームパワーを引き出すことができるかもしれません。

「それは、リーダーシップというスキルのひとつ」と言えるかもしれません。しかし、リーダーシップを測定し評価する方法も、それができる人間もまたほとんどいないのではないでしょうか。

もちろん、過去に転職を繰り返しながらマネジメントの階段を上ってきた人物には、たしかにリーダーシップというスキルが備わっているように見えます。しかしその人物は、華麗な(?)履歴書によって採用面接は突破できても、働き始めるとすぐにボロが出る「口先だけの偽リーダーシップ」の持ち主なのかもしれません。

終身雇用に話を戻しましょう。

「終身」とは言いますが、実態はせいぜい65歳までの雇用です。平均寿命を考えれば「終身」ではなく「長期」と言うべきでしょう。また、終身雇用は年功序列とセットで語られがちですが、そうしたやり方をしている企業はほとんどありません。

私自身、複数の「終身雇用」を実践している企業に正社員として勤務していたことがありますが、年功序列どころか企業内競争はかなり厳しいものがありました。同期で入社しても、役員となって70歳まで働く人と平社員のまま60歳くらいで定年退職する人がいるのが当たり前です。(もちろん、組織に属さず自分一人の実力だけで生きていくプロフェッショナルに比べれば楽かもしれませんが)

そう考えると、終身雇用とは「組織内でサバイバルゲームを繰り返しながら実力のある人間を選択していく」厳しいシステムであることが分かります。しかも、そこで求められる実力とは「チームパワーを最大限に引き出す力」という、客観的に測ることが難しいスキルです。そして、測ることが難しいからこそ、長期間の雇用のなかで試行錯誤を通じて人間を選択して行く必要があるわけです。

終身雇用という言葉を、単純に(しかも間違って)捉えている人たちの的外れな言葉は無視するとして、別の名称、例えば「組織内選抜型長期雇用システム」という言い方に切り替えるべきではないかと思っています。

(人材育成社)


「当たり前のことを新しいことのように言わないでほしい」

2014年06月25日 | コンサルティング

 「これからは視点を変えなくてはいけないと思うんです」「従来とは違う新たな視点が必要です」

これは先日あるテレビの情報番組で、かつてスポーツ選手として活躍していた人がコメンテーターとして発した言葉です。

その番組では、行政が過去に作った箱モノと言われる公共施設の転用の例を取り上げていました。この方は、これらの施設が現在の社会・経済情勢の中で当初の設置目的とは大きく違った利用をされていることに大変感銘を受けたようで、これは行政の変化の一例であり、今後はこうした「新たな視点を持つ」ことがいかに重要かということを繰り返し力説されていました。

従来とは異なる視点を持つことの重要性については私も全く同感であり、異論をはさむ余地はないのですが、正直このコメンテーターの発言には違和感を持ちました。

というのは、その番組で紹介していたような転用は、何も今に始まったことではないからです。私の出身市では、1970年代に新興住宅地に建設した小学校の建物の将来の利用法を、当時から将来(現代のことです)の高齢化を見込んで、老人介護施設にする前提で考えており、現在では当初の予定通りに老人介護施設として利用されています。

同じような例は他にもたくさんあって、30年程前に建設された県立高校が現在は老人介護施設になっている例など、枚挙にいとまがないほどです。

つまり、冒頭のコメンテーターが言っていたことは「新たな視点」でも何でもないということです。もちろん、このコメンテーターにとってはフレッシュな情報で斬新なアイディアであり、自分がイメージするこれまでの行政のあり方とはだいぶ違うということだったのでしょうから、ストレートな感想だったのだと思います。

しかし、この方に限ったことではないですが、例え自分の専門外のことであったとしてもコメンテーターとして発言するのであれば、少なくともそのテーマにかかる周辺の情報をある程度収集し、それなりの知識を持って臨む必要があると思います。それをしないで、従来からあることや当たり前のことをまるで新しいことのように言われると少々興ざめしてしまいます。

 そして、こうしたことは私が身を置いている研修講師の業界においても言えることなのです。

以前このブログでも書きましたが、研修講師でも研修の技法をしっかり勉強して自分のものとして身に付けていない人ほど、自身の進め方を新しいやり方だと力説したり、海外から入ってきた情報を鵜呑みにして発言したり、そのまま研修に使ったりしているように感じています。

しかし、本当に大切なのはそうした技法を上辺だけで伝えるのでなく、きちんと受講者に理解いただけるように自分のものとすることだと思っています。

コメンテーターでも研修講師でも、外に向けて何かを発信をする時は本当にそれが正しいのかきちんと把握するなどそれ相当の準備が必要であると自戒の念を込めて思ったのでした。

(人材育成社)


わかりやすいことが正しいとは限らない

2014年06月22日 | コンサルティング

「わかりやすいこと」はビジネスにおけるコミュニケーションの基本です。私たちが講師を務めるビジネス文書やプレゼンテーション技法といった研修でも、「わかりやすいことは良いこと」であるという考え方がその土台にあります。

しかし、「わかりやすい」ことのマイナス面もあるのではないでしょうか。

先日あるセミナーに参加しとたきに、ベテランの研修講師が「説明が上手な人は、抽象的な言葉は使わない。具体的な言葉を使って説明する。身近な例えもうまく使う」と言っていました。

その言葉を聞いたとき、まさにその通りだと思う反面、強い違和感を覚えました。

説明が「わかりやすい」とは、聞き手の能力(理解力)を超えないメッセージを話し手が発することです。そして「例え」を使うということは、聞き手が理解できる具体的な事象に置き換えることですから、そのメッセージの持つ抽象度は一気に低下します。

もちろん、話し手としては聞き手に誤った解釈をして欲しくないわけですから、「わかりやすい」ことを否定するつもりはありません。

ですが、あるメッセージが本来は様々な意味や、状況によっては異なる感情や思考を生むものだとしたら、「わかりやすい」とは、話し手が聞き手に対してたった1つの解釈だけを押し付けることにならないでしょうか。

つまり、「わかりやすい」ことにはそのメッセージが本来含んでいる知識の適用の幅を狭めてしまうという欠点があると考えます。

最近、新聞や雑誌、テレビで見聞するメッセージは「わかりやすさ」を(極端に)前面に出しているように思います。「AとはBは正反対である。だから絶対にBを認めるべきではない」「Cという考え方は100%間違っている」「Dという行動は絶対に正しい」等など。研修では「あいまいさを排除しなさい」などと言っているにもかかわらず、こんなことを考えるのは矛盾しているかもしれません。

しかし、言葉の持つ意味とは、本来はちょっとした雑味を含んだ微妙なものなのではないでしょうか。また、そうした雑味を含んだ味わいこそが日本語の特徴であったような気がします。

言い過ぎかもしれませんが、「わかりやすい」だけのセミナーや研修は、かえって受講者の成長の芽をむしりとっているように思います。

私たちは、「説明が難しくても重要な言葉は、それが抽象的であっても排除はしない。そして、具体的な言葉に置き換えたり、身近な例えを使うことで考えの幅を狭めてしまう可能性があれば、そうした手段はとらない」ことを実践して行きたいと思っています。

(人材育成社)



日本がサッカーワールドカップで優勝するには  

2014年06月18日 | コンサルティング

サッカーワールドカップ ブラジル大会が開幕して、間もなく1週間になります。日本の初戦8日のコートジボワール戦の最高視聴率は 50.8%とのことですから、2人に1人が見ていたことになります。私もハラハラドキドキ、最後はがっくりでした。

初戦の結果は残念なものでしたが、ここは次のギリシャ戦に期待したいところです。

ところで、コートジボワール戦を見ていてあらためて思ったのは、世界最高レベルのサッカーチーム同士が対戦するわけですから、W杯で勝利することは簡単なことではないということです。

それでは日本が勝つためには、どうすれば良いでしょうか?

一番手っ取り早いのは、外国からトップ級の選手を集めることだと思います。

ブラジルのネイマール、コートジボワールのドログバ、アルゼンチンのメッシ、ドイツのミュラー、ポルトガルのロナウドなどを集めてチームを作れば、さぞかし強いチームになるのではないでしょうか。

まさにサッカー版ドリームチームですが、もちろん、これですぐに勝ち続けられるというほど単純な話ではないだろうとも思います。

それに、ワールドカップは国と国の戦いです。外国人選手ばかり集めて戦っても、それでは日本代表チームとは言えないですし、ワールドカップでの勝利も意味がないことになってしまいます。

このように考えると、これはサッカーばかりでなく企業でも同じことではないでしょうか。

企業も単純に利益だけを上げたいのであれば、他から優秀な人材を引き抜いてきて成果主義により報酬を与えて、成績が悪くなれば首にしてしまえばいいのです。

しかし、それではその企業は長く繁栄し続けることは難しいのではないでしょうか。

外から人を呼んでくるばかりで、内部の社員をきちんと育てることを放棄してしまうようなことでは、いつまで経っても企業の理念も浸透しませんし、アイデンティテイも育ちません。

もちろん、外からの人材は即戦力を期待して採っているわけですから、短期的には大きな利益を上げることができるかもしれません。しかし、少し長いスパンで考えて次に続く「人」を育てなければ、企業自体の長期的な成長も望めなくなってしまいます。

社員の雇用を守りつつ企業が成長し続けるためには、時間をかけて丁寧に社員を育てていくこと、それが大事なことだと思うのです。

さて、ところで次のギリシャ戦、もし負けてしまえば1次リーグ敗退の可能性もあるとても大切な一戦です。20日の朝7時にキックオフということで、試合中が出勤時間と重なってしまっているという人も多いでしょうが、日本が勝てばそのまま一日気持ちよく仕事ができそうですから、ぜひ皆で応援しませんか。

(人材育成社)


工業が農業へ恩返しをするとき

2014年06月15日 | コンサルティング

日本のGDP(国内総生産)約470兆円に占める農業の割合は約1.2%程度です。

この数字について、かつてある政治家が、農産物の輸入自由化に反対する人たちに対して次のように発言したことがあります。

「1.5%(当時)を守るために98.5%を犠牲にするのか」

説得力のありそうな言葉ですが、OECD諸国の中では1.5%は特に低いとは言えません。また、農産物の消費量は、工業製品やサービスのように大幅に増加することもありませんから、GDPの1.2%でも決して不思議ではないと思います。

ただし、日本の食料自給率が約39%(カロリーベース)というのは、やはり他の国々から比べるとかなり低いと言わざるを得ません。

そこで、国内の農産物の供給を増やす方法がいろいろと考えられています。なかでも、効率的な生産技術の確立が切り札になりそうです。最近話題になる「植物工場」もそのひとつです。

「工場」というと、農業には馴染まないように感じるかもしれません。しかし、工場といっても加工したり組み立てたりするわけではなく、植物が育つ環境を制御することが主な目的です。

ここで、確認しておきたいことがあります。日本のお家芸であるものつくりの技術は、農業から受け継いだ文化が基礎になっているということです。

かつて日本国民のほとんどが農業従事者でした。特に稲作は正確な手順と多くの手間がかかる「プロセス産業」でした。そのお陰で日本人は、多数の人間が協調しあって何かを作ることに長けた国民になりました。

つまり、日本の優れた工業生産技術は、稲作などの農作業を通じて得た「プロセス技術」があったからこそ花開いたわけです。

今こそ、工業は農業に恩返ししなければなりません。

さて、人を育てることも農業の手法と同じだと思います。何度も言及していますが、弊社は「人財」という言葉は使わず「人材」にこだわっています。

財は金額で換算できる価値を表していますが、材は生き物であり伸びる可能性を秘めています。

人材育成に農業から受け継いだ精神を生かしていく、それが私たち日本人のやり方ではないでしょうか。

(人材育成社)

 

 


わからないことがわからない

2014年06月12日 | コンサルティング

「大工の世界では、一番腕のいい人が棟梁になることはあんまりないね。 2番目の人がなることが多い」

先日ある大工さんに聞いた話です。この話を聞いて、「それはなぜですか?」と質問をしたところ「抜群に腕の良い人は、何でできないのか、できない理由がわからない。2番目くらいの人だとできない人の気持ちもわかるんだよね。だから『わからない』っていうことを理解できることも棟梁の条件なんだ」

この話を聞いたときに、私は妙に「なるほど」と納得できました。

というのは、研修中にポイントごとに受講者に「何か質問はありますか?」と聞いても手が挙がらないことから、理解をしてもらえたのかなと思ってそのまま続けて演習を行うと、実は内容が理解できていなかったことが後からわかるということがあるからです。

わからないところがあるのなら、「質問はありますか?」と声をかけた時に聞いてくれればよかったのにと思うのですが、実際にはあまり質問が出ないのです。

その理由はいろいろあると思いますが、大きく分ければ、質問したいところはあるのだけれど大勢の前で聞くのは恥ずかしいと思う人と、そもそもどこがわからないのかがわからないという人がいるのだと思います。そのように考えていた矢先に、冒頭の大工の棟梁の話を聞いたので、納得がいったわけです。

そもそも質問をするためには、その前提として理解しているところと、そうでないところを区別できていることが必要です。言葉にするとややこしくなりますが、

「わからないことを質問するためには、わからないところをきちんとわかっている必要がある」 ということになると思います。

これを仕事で言えば、業務の内容をきちんと理解し把握できていない人は、そもそも質問自体することがなかなかできないということになります。

そして上司は、もし部下が質問をしてこない場合、それは質問する必要がないからなのか、質問することができないからなのか、部下の理解度合いを推し量ったうえで的確に見極める必要があります。

大工さんに限らず指導者は、「わからないことがわからない」ことが誰にでもありうることを理解したうえで指導を行うことを心掛けたいものです。

(人材育成社)


カレーの市民

2014年06月08日 | コンサルティング

私がはじめてこの彫刻を見たとき、これは何か重い罪を犯して引かれて行く犯罪者たちだと思いました。彼らの表情は暗く、足取りは重く、全身から恐怖と絶望がにじみ出ているからです。
しかし、このロダンの彫刻「カレーの市民」は、まぎれもなく英雄(ヒーロー)たちの群像です。

カレー(Calais)は、ドーバー海峡を挟んだイギリスの対岸にある北フランスの港町です。

百年戦争中の1347年、イングランド軍はカレーを長期間包囲し、兵糧攻めにしました。カレーの人々は飢餓に苦しみ、ついに降伏します。そのときに、多くの市民の命を救うためウスターシュ・ド・サン・ピエールと5人の市民がイングランド軍に出頭し、自らの命を差し出すことで他の市民を守ったという逸話が残っています。つまり、彼らはまぎれもなくカレーを救った英雄たちです。

1884年、カレー市は「恩人」サン・ピエールの記念碑建設を決定し、ロダンに制作を依頼しました。ところが出来上がったのは、サン・ピエールと5人の市民が首に縄を巻いて裸足で市の門を出て行く群像でした。
華やかで力強い英雄像を期待していた市当局は、当初これを拒否し、ようやく除幕式が行なわれたのは完成後7年経ってからでした。

さて、弊社は管理・監督職への昇格者に対する研修をよく行います。
研修の中でリーダーシップについて考えていただくのですが、受講者に「リーダーの条件とはなんでしょう?」とたずねると、実に様ざまな答えが返ってきます。

「では、リーダーの条件として1つだけを残すとすれば何でしょう?」とお聞きすると、残るのはやはり「責任」という言葉になります。それは、分かりやすく言えば「逃げない」ということです。

「カレーの市民」を見るたびに、リーダーとは「逃げない」人なのだという重い事実を見せつけられる気がします。
たとえ小さな組織であっても、新しくリーダーとなった方は、「カレーの市民」を一度じっくりと見ることをお勧めします。

上野の国立西洋美術館の前庭に、この彫刻はあります。

(人材育成社)


「言葉にできない」

2014年06月04日 | コンサルティング

Q「お客さんの情報はどうやって聞き出しているの?」

A「あの手この手でいろいろな角度から質問するようにしているよ。そうすると、少しずつ話をしてくれるようになるので。」

Q「『あの手この手』の具体的な質問内容と質問の順番を教えてくれる?」

A「特に決まった質問や順番があるわけではないので、具体的にと言われても・・・」

その昔、お客様からの情報収集の仕方に悩んでいた同僚から受けた質問です。

「あの手この手」を具体的にしようとすればするほど、だんだん訳がわからなくなってしまい、相手に伝わらないもどかしさを感じたことを今もよく覚えています。

あれから十数年たちますが、現在でもお客様から「社内で培ってきたノウハウが後進に伝授されていないので、何とかしてもらえないか?」という相談を受けるたびに、ノウハウの中身を顕在化させるにはどうすればいいのだろう?と悩んでしまいます。

そもそもそうしたノウハウに関わる知識は膨大であることが多いですし、ベテランの「経験から生み出されるノウハウ」は整理が難しい暗黙知であるため、科学的に検証することが難しく、その内容を伝授することは、一朝一夕ではいきません。

「暗黙知」とは表現が困難な知恵や知識のことで、例えばベテランの職人が持つ技術やノウハウはそれを言葉やデータで表現しようとしても難しい、しきれないことが多いと感じます。

しかし、一方で人材育成の観点からはそれをいかに社内で共有し、後進に継承していくかは大変に重要な課題です。ベテラン技術者などの大量退職を迎えている中で、この課題に取り組んでいる企業は数多いと思います。

今後、こうした知識や技術を形式知化(誰にも認識が可能で、客観的にとらえることができる知識にする)して、それを共有、継承することがますます必要とされます。こうした知識や技術、ノウハウのデジタル化、データ化が進められていくのでしょうが、ではそれによって中身が全て顕在化できるのでしょうか?

ベテラン職人の「こうとしか言えないんだよな。」といったいわば「阿吽の呼吸の世界」のようなものは仮にデータ化はできても、それですべては伝わらない部分が残るのではと思います。

物事のデジタル化がどんどん進んでいる現代ですが、こうした部分をどのように伝えることができるのか、弊社にとってもなかなか難しいテーマです。よりよい方法を見つけるべく日々努力する、それ以外に道はないと肝に銘じています。

(人材育成社)


クリエイティブな仕事とはなんでしょう

2014年06月01日 | コンサルティング

「コンピュータが単純作業を全部引き受けるから、人は人にしかできないクリエイティブな仕事に集中すれば良い」時々こんな発言を聞きます。
一見、コンピュータを理解している人の言葉のようですが、実はコンピュータが苦手な経営者や管理職がよく口にするセリフです。逆に、システム開発を担っている現場のエンジニアからこうした発言を聞くことはめったにありません。

先日、ある精密機器メーカで問題解決をテーマにした研修を行ったときに、「社内で最もクリエイティブな仕事は“ろう付け”です」と言う受講者がいました。
ろう付けとは溶接のことで、金属同士を接合する方法です。中年以上の方は「はんだ付け」を思い出していただければよいと思います。

溶接というと、テレビのニュースにたまに登場する自動車の生産ラインを思い出します。生産ラインに乗った自動車のボディに、ロボットの腕が接触して派手に火花を散らしている映像です。とてもクリエイティブではなく、コンピュータとロボットに任せれば十分な作業のように見えます。
そう思って受講者に訊ねたところ「溶接の火花が大きいほど電力と部材がムダになっている証拠です」という答えが返ってきました。

そして「精密部品を内蔵する筐体をろう付けするには、大変高度な技術が必要です。バーナーの調整、その日の温度、湿度、炎を当てる角度、時間など、製品の品質に大きな影響を与えるとてもクリエイティブな作業です」とのこと。しかも、製品の仕様が変わったり作業条件が変わったりするたびに、「想像力」を働かせたろう付けをしなければ、品質を維持できないそうです。

コンピュータやロボットに置き換えられる作業であってもクリエイティブな部分は人の手に残ります。「○○という作業はコンピュータに任せておけばよい」といった単純な発言こそ、実はコンピュータのことをよく分かっていない証拠なのかもしれません。

どんな会社にも、外から見ると単純作業のように見えて、実はクリエイティブな仕事がたくさんあります。
人事部門の方々は、社内のすべて仕事の「真実」を、現場に行って、現物を見て、現実を知ることで理解しておく必要があると思います。
それが人事という仕事をクリエイティブにする唯一の方法ではないでしょうか。

(人材育成社)