中小企業のための「社員が辞めない」会社作り

社員99人以下の会社の人材育成に役立つ情報を発信しています。

日本の技術力はこれから下り坂にさしかかる

2014年03月30日 | コンサルティング

日本は天然資源に乏しい国なので、戦後は技術力を武器にして貿易立国として成長してきました。今や日本の技術は世界一であり、工業製品においては高機能・高品質の代名詞です。現在の日本の技術力は頂点に達していると言っても過言ではありません。

そう、まさに頂点なのです。

だから後は下る一方です。

弊社は製造業のお客様の比率が高く、研究開発、製造、品質管理など様々な現場で働く方々を受講生として研修を行ってきました。そうした現役の技術者の方々に「いま最も気になっていることは?」と聞くと、必ず返ってくるのは「若手技術者の育成が上手く行っていない」という言葉です。

「どうして上手く行っていないのですか?」と聞いてみました。現在40代後半の課長クラスの技術者の方によると、「とにかく忙しい。新しい技術や規制を取り入れるだけで手一杯だ。しかも人が減っても補充してくれなくなった。とても若手の面倒を見る余裕なんてない」とのことでした。

90年代中頃までは、「面倒見の良い先輩」や「うるさ型の係長」、「生き字引の課長」が会社の中にいて何かと助けてくれました。そうした方々から見ると、若手技術者は「現場のことは何も知らないひよっこ」でした。ところが今やその「ひよっこ」は孤立したまま育って行かなければなりません。

しかし、本当に問題なのは若手技術者が自らを「ひよっこ」であると認識できなくなったことでしょう。

彼等は「うるさ型の係長」に叱られることもなく、高度な機械設備と高速のコンピュータ、標準化された業務の中で与えらえた仕事をこなしています。加えて、日々テレビや新聞などで「日本の技術は本当にすばらしい!」という言葉を繰り返し聞かされながら生活をしています。

確かに「今の」日本の技術はすばらしいです。だから余計にやっかいなのです。ベテランの技術者たちがいなくなる10年後の日本の技術がどうなるかは、想像に難くありません。

さらに、今話題の「疑惑の博士論文」ではありませんが、技術者の養成機関でもある理工系大学院の教育もごく一部では(と思いたいのですが)同様に「知の空洞化」が始まっているように思います。

このブログで再三発言してきたとおり、人を育てるには長い時間と手間がかかります。しかし、真の技術力は「人」の中にしか蓄積できないのです。

この単純な事実を無視して、「成果」だけを評価することが国際競争力の強化につながると考えている人があまりにも多いように思います。

成果が欲しいなら、何をおいてもまず人を育てるべきです。

さて、「強い人材を育成する仕組み」を企業のなかにどうやって構築して行くのかが弊社のコンサルティングのテーマです。

いまさらながら大それたテーマを掲げてしまったものだと半ばあきれながらも、これほどエキサイティングな仕事に取り組める幸せをもない、と思う今日この頃です。

(人材育成社)

 

 

 

 


「真打」までには15年

2014年03月26日 | コンサルティング

「入門から15年。『きちんと大事にゆっくり』と育てました。」

これは3月23日に、真打に昇進した古今亭志ん公改め古今亭志ん好さんの昇進襲名披露口上の時の、三遊亭金馬さんの言葉です。

噺家は、入門から真打昇進まで約15年という長い年月を経るそうです。15年と言えば、赤ん坊が高校に入学するまでの年数ですから、何とも長い時間です。

その道のりは、弟子入りを志願した師匠から入門許可を得て前座登録し、師匠の下での雑用から始まり寄席での仕事(前座修行)が課せられて、二つ目になります。

ここでようやく一人前と見なされるようになります。紋付きの羽織を着ることが許され番組にも名前が出るようになりますが、二つ目でさらに10年間程度の経験を積み、師匠の許しがもらえれば、そこでやっと真打に上がることができるのです。

これだけの長い下積み期間を経てようやく真打昇進するわけで、それまでの長い道のりを考えると、あの襲名披露口上の席がいかに晴れがましいものなのかが想像できますね。

ところで、年度末 3月も残すところあと数日となりました。4月1日は多くの企業の入社日です。私どももこれからしばらくの間、新入社員研修をご依頼いただいている企業で沢山のフレッシュマンの皆さんにお会いすることになります。

企業を取り巻く環境は一時期より厳しさが回復しつつあるとの報道もありますが、実情はまだまだ厳しいところが多いように感じます。

そうした状況ですので、自ずと新入社員に対する期待も大きくなるようで、先日お会いした企業の研修担当者も新入社員に対して「早く育ってほしい」「早く即戦力として活躍して欲しい」とおっしゃっていました。

もちろん、早く成長してもらえるのならそれに越したことはないのでしょうが、現実はそんなに簡単でないことは言うまでもありません。

噺家の世界は真打まで15年ですし、桃栗3年 柿8年という諺もあります。昨日今日植えた木が来年すぐに実をつけることはなかなかないわけで、将来大きな実をつけてもらうためには、丹精を込めて育てなければならないのはもちろんのことです。

今のご時世、早く大きくなって欲しい、育ってほしいという気持ちはとてもよくわかりますが、1年以内に生長して開花・結実し、種子を残して枯死してしまう1年草のように、すぐに大きくなってもすぐに終わりが来るものもあります。

また、肥料や水をやり過ぎると根腐れしてしまうということもあります。肥料や水を吸収するのにもそれなりの時間が必要ということは、植物も人も同じだと思います。

スピードが求められる時代ではありますが、人材は長い目でゆっくり丁寧に育てることが必要だということを忘れないようにしたいものだと思います。

(人材育成社)


「LEADERS リーダーズ」と黎明期

2014年03月23日 | コンサルティング

テレビドラマ「LEADERS リーダーズ」を見ました。国産自動車産業の黎明期(れいめいき)の話でした。ドラマの舞台となったトヨタは今でこそ世界最大の自動車メーカですが、ついこの間まで(私が生まれる寸前くらいまで)何度も苦境に立たされていました。

どんな会社でも創業時や産業自体が黎明期の頃は、様々な苦難に遭います。多くは斃(たお)れ、ほんのわずかな会社だけが生き残ります。生き残った会社はやがて業績が伸び、安定し、繁栄を謳歌します。ビジネスも生物界と同じで、多産多死の世界なのです。

黎明期という言葉を辞書で調べると「夜明けにあたる時期。新しい文化・時代などが始まろうとする時期」とあります。

では、黎明期はいつなのでしょうか。

もちろん、答えは「いま」です。

今この瞬間が、何かの産業の黎明期です。バイオテクノロジーやクリーンエネルギーといった分かりやすいものから、まだほとんど知られていない技術やサービス等もあることでしょう。

私が大学4年生の時に、就職先にメーカーを選んだことを経済学部のある教授に伝えたところ、「なんで製造業に行くの?金融の方が給料も良いし安定しているのに。」と言われたことがあります。

私は「製造業はイノベーションを起こせるからです!」と答えました。すると教授は少し笑いながら、「今の世の中これだけ技術が発達しているんだから、これから先、もうイノベーションなんてほとんど起こらないよ。」と言いました。1978年のことです。

イノベーションは今もたくさん、どこかで必ず起きています。それはよく見えないけれど、私たちの身近にたくさんあります。今が何かの黎明期なのです。

・・・もっとも、その「何か」が分かれば苦労はしないのですが。

(人材育成社)

 


「制約」を逆手にとる

2014年03月19日 | コンサルティング

産婦人科医の仕事をしつつ、3人の子どもの子育てをし、受験勉強をしてハーバード公衆衛生大学院へ留学、そして大学院修了間際には第4子を出産して帰国。さらには昨年11月?には5人目のお子さんを出産!

これは先日読んだ「『時間がない』からなんでもできる」(サンマーク出版)の著者、吉田穂波さんの経歴です。

吉田さんは仕事・家事・育児における様々な制約を逆手にとり、子育てや家事、仕事のそれぞれで自分がやりたいことを全て行っていらっしゃるのです。この本を読むとついつい「忙しい」を言い訳にして、やりたいこと、やらなければいけないことを一日延ばしにしてしまっている私にとっては、本当に頭が下がる思いがします。

私は、仕事やプライベートで期限がはっきり決まっているものについてはそれなりにきちんとやり遂げています。今年の所得税の確定申告も期限(3月17日)がはっきりしていたので、ぎりぎり駆け込みではありましたが何とか間に合わせました。

「忙しい」ことを理由にして先延ばししていることがいくつもあるのですが、では本当に「忙しいのか?」「時間があれば本当にやるのか?」と自問してみると、自信をもってそうとは言い切れない部分もあります。

そう考えると、「忙しい」は案外格好の言い訳になっているのだろうと思います。

環境を整えてから物事を始めることは大切だと思いますが、逆に与えられた環境や条件の下で思い切ってスタートしてみることも存外に良いかもしれないと思っています。

完璧な状況を待っていたら、一生待ってもその時はやってこないかもしれませんし、自ら無意識にハードルを上げてしまっていて、その時がくるのを遅らせているかものしれませんから。

ところで、仕事には必ずといっていいほど制約があります。

Q(品質):成果物に求められる水準、仕事の「完成度」

C(コスト):利用可能な経営資源(人・物・金)

D(納期):仕事の締切り

この3つの制約条件がついてまわるのですが、目的とする成果を最大にするためには、この3つの中で優先すべきものをその都度選択しなければなりません。

品質を優先するのであれば、納期やコストが二の次になることもありますし、コストを優先するのであれば他の二つを犠牲にせざるを得なくなります。納期についてもしかりです。

3つの条件が全部揃うなどということはそうそうないのですから、何をやるのか、いつ始めるのかを検討する時には、同時に制約条件の中で一番大切にするものは何か、犠牲にしても良いのは何かを選択しなければいけないのです。

さて、時には自分自身が先延ばしにしていることの中に、もしかしたら条件のせいにしていることがあるのでは?と自問してみることも大切ではないでしょうか。

(人材育成社)


電車の中のソーシャル・エンジニアリング

2014年03月16日 | コンサルティング

ソーシャル・エンジニアリングとは、IT技術を使わないハッキングのことです。

たとえば、コンピュータを使っている人の後ろに立ってパスワード入力の際のキーボード入力を盗み見る、情報システムの担当者のふりをしてシステムに詳しくない人から情報を聞き出すなど様々な方法があります。

いくら頑健なセキュリティシステムを構築しても、人が弱点になっていては意味がありません。

先日、ぎゅう詰めの満員電車の中で、まだ20代と思われるスーツ姿の男性がA4サイズの書類を開いて見ていました。私は、その人の肩越しからその書類の中を、とてもよく見ることができました。

そこには、約20人ほどの名前とふりがな、社名、所属部署、内線番号および「契約期間」が一覧表になっていました。私はすぐに、それが「派遣先リスト」であることが分かりました。そして、よく見ると隅っこに大手の人材派遣会社の社名が・・・。

満員電車の中ですから他に目線をやることもできなくて、約5分間その書類を凝視し続けました。私は記憶力が良い方ではありませんが、10人分くらいの情報は記憶することができました(もちろん、すぐに忘れてしまいましたが)。

私に悪意があれば、その派遣会社に電話して、記憶した10人分の情報とリストを見ていた男性の風貌を伝えて次のように「脅す」ことができます。

「・・・今お話した内容を御社の顧客のX社に伝えますよ。X社は大手信販会社ですよね。そうすると、契約は打ち切りになるばかりでなく、個人情報の管理が極めて甘い派遣会社という評判が業界全体に広がり、御社は相当な損害をこうむることになります。さあ、どうしますかねえ・・・」

・・・まあ、上記の部分は「冗談」ということでご容赦ください。

また、比較的よく見かける光景ですが、電車の中でPCを開きメールを書いている人がいます。先日たまたま隣に座った人のPCの画面をちょっと見たら、「XXの契約について」というタイトルがありました。

ソーシャル・エンジニアリングはシステムの脆弱な部分、つまり人をターゲットにしたハッキングです。言うまでもなく、パブリックスペースである電車の中で社外秘情報を広げるのは論外です。

来月になると新入社員がたくさん入ってくる会社にお勤めの方々、最初が肝心です。しっかりと教育をしてください。

ついでですが、ここネットの中もパブリックスペースであることをお忘れなく。

(人材育成社)

 

 

 


真実は「現場」にある

2014年03月12日 | コンサルティング

「うちのかみさんがね・・」「それともう一つ・・」犯人を追い詰めて行く時の刑事コロンボの台詞です。

「疑ってるんでしょ?」と犯人に聞かれた時の古畑任三郎は、「疑う?と、とんでもな~い…」という決め台詞を使っていました。

コロンボも古畑任三郎も徹底的に現場を調べ、客観的かつ現実的な証拠に基づきぐうの音も出ないように犯人に迫っていく様は、ドラマならではのユーモラスさもあり、とても楽しい番組でした。

ところで、今考えるとこの二つのドラマは、まさに3現主義を徹底していたのだと思います。3現主義とは「現場」「現実」「現物」のことです。それぞれの頭に「現」の字がつくことから3現主義と言うのですが、もともとはあの本田宗一郎さんが作られた言葉です。

「現場」に足を運び、場を確認する

「現物」を手に取り、物を確認する 

「現実」をこの目で見て、事実を知る

例えばクレームがあった時、机に座ったまま対応するのではなく、現場に足を運んで現物をこの目で見て、できるだけたくさんのデータを集めることで、はじめて事態を客観的にとらえることができるのです。

また、お客様に直に接することで、お詫びの気持ちを誠心誠意伝えることもできます。

私たちは、忙しいことを理由に現場に足を運ばず、ついつい電話やメールで済ませてしまうということがあります。それは一見効率的と考えられますが、そこまでのことが多いのです。

実際に現場に行ってお客様にお会いすると、「ここだけの話」と思いがけずフレッシュな情報を聞かせていただけることがありますし、時には新たな案件の提案依頼をいただくこともあります。いずれも、現場でお客様と時間を共有することで、電話やメールでは得られない情報や機会を得られた例です。

遠方であったり毎年継続的な案件をいただいているお客様などの場合、足を運ばずつい電話やメールで簡単に済まそうとしてしまうことがありますが、先日それではいけないと考えることがありました。

研修で長年お付き合いをいただいているお客様から職場見学の機会を頂戴しました。複数の職場をご案内いただいてインタビューをさせていただいたのですが、想像以上に有意義な時間になりました。

深くお付き合いをいただいているので、普段から会社案内やホームページを丁寧に確認しているつもりでいたのですが、現場に伺い、そこで働いていらっしゃる方から直接お話を伺い、仕事の詳しい内容や研修の成果が仕事の中でどのように生かされているのか、職場でどのような問題が起きているのかなどをあらためて知ることができ、理解を深めることができたのです。 

これはまさに、3現主義の成せる業だと思います。

いかがですか。皆様、是非「現場」に足を運ぼうではありませんか。まさに「真実は現場にある」のですから。

(人材育成社)


研修はクッキング・スクール

2014年03月09日 | コンサルティング

私たちは研修終了後、「研修内容についてのアンケート」をとります。用紙には研修に対するご意見をいただくために、自由記述欄を設けてあります。単なる感想ではなく、今後の研修をより良いものにするためのヒントが書かれていると大変うれしく、また、ありがたく思います。

一方、「講義の内容はほとんど知っていることばかりで、あまりためにならなかった」という意見を書かれる方も、ごく少数ですがいらっしゃいます。

たしかに、本や他のセミナーですでに学んだことをまた聞かされるのは、つまらないに違いありません。

ただ困ったことに、こういう意見を書かれる方には2つのタイプがあることです。

ひとつは「知っていて、実践している人」、もうひとつは「知っているが、実践していない人」です。

人事部門の担当者と行う「研修の振り返り」の際に確認してみると、前者(知っていて、実践している)と思われる人の割合は5%未満というのが事実のようです。

つまり、「講義の内容は知っていることばかりだった」と書く人のほとんどは、「知っているだけで何もしない人」なのです。

知っているのに何もしないのですから、会社からすればそういう人の研修費用は「無駄」という以外にありません。その人の知識が増えたところで実践されなければ、会社にとっては無意味だからです。

私は、研修をクッキング・スクール(料理教室)にたとえることがあります。

料理を学ぶ目的は、自分で料理を作ることです。「知っているが、実践していない人」は、料理の知識はあるけれど料理を作ったことがない(本当は作れない)人なのです。

最近は研修のはじめに、「テキストにざっと目を通して、知っていることがあったらディスカッションの時に職場でどのようにして実践しているのか、あるいは使えないとしたらどの点に問題があるのかを具体的に話すようにしてください。」と伝えるようにしています。

そして、「職場に戻ったら実践すること」を具体的にコミット(約束)していただきます。その際、上手く行ったら周りを巻き込んでどんどん進める、上手く行かなかったら止めれば良いのです。

家に戻ったら料理をする、それがクッキング・スクールに行く「意義」というものです。

(人材育成社)

 

 


「すみません」と「ありがとう」 どちらを使いますか?

2014年03月05日 | コンサルティング

「どうもすいません」

1960年代から70年代にかけ、爆笑落語で人気を博した昭和の爆笑王 初代林家三平師匠の決め台詞です。額にゲンコツをかざして使われたこの言葉、憶えていらっしゃる方も多いと思います。

この「どうもすいません」には何ともいえない親しみが感じられ、当時の私はとても好感を持って聞いていました。

ところで、ここ最近は「ありがとう」と「すみません」という二つの言葉のうち、どちらを使うべきか考えることがよくあります。

例えば、訪問先でお茶を出された時に「ありがとう」と言うのか、それとも「すみません」と言うのか?

また、自分がお茶を入れた時、相手から言われる言葉としては「ありがとう」と「すみません」のどちらを言われた方がより嬉しいと感じるか?

「ありがとう」も「すみません」も相手の行為に対する感謝の言葉として使われますが、私自身は言うのも言われるのも「ありがとう」の方がしっくりとしますし、嬉しく感じます。

しかし、弊社にお客様がいらっしゃられ、お茶をお出しした際にいただく言葉は「すみません」の方が圧倒的に多く、使われる頻度で考えると「すみません」に軍配が上がるようです。それはなぜなのでしょうか?

以前、日本に長く暮らしているアメリカ人から「日本語の『すみません』になかなか慣れることができません」と言われたことがあります。感謝もお詫びもすべて「すみません」なので、どの意味の「すみません」なのか判断が難しいとのことでした。

そこで、英語ではどのように表現するかを確認したところ、

「ありがとう」→ 「Thank you 」

「すみません(お詫び、謝まる)」→ 「I’m sorry 」

「すみません(会話の邪魔をする時、会話が聞こえない時、人ごみを掻き分ける時、人前でくしゃみや咳をしてしまった時)→ 「Excuse me」

となります。

日本語では「Thank you 」も「I’m sorry 」も「Excuse me」も、「すみません」で済ますことができます。

コンテクスト(文化・風土・価値観)を共有していれば同じ「すみません」でも、使われる背景によりどの意味で使われたのか容易に推測がつきます。しかし上記のアメリカ人のようにコンテクストが共有されていないと、場合によっては違った意味合いにとられてしまい、誤解を招いてしまうケースがでてきてしまうのです。

また、日本では時に「すみません」と言いつつ、曖昧な「笑み」を浮かべてしまうこともあります。お詫びの意味で「すみません」と言っているはずなのに、表情が一致していないととられかねないことになってしまっているのです。

「アルバートメラビアン」の法則では、表情と言葉が一致していない時には、非言語の方がコミュニケーションに与える影響が大きいという調査結果もありますから、この意味でも言葉と表情で誤解を招かないように注意しなければなりませんね。

そして、これらの問題はコミュニケーションという意味では外国人に対してだけでなく、同じ日本人に対してもありえることではないでしょうか。

言葉は「言霊」と言われるくらい大切なものですから、気持ちをしっかり伝えたい時にはぴったりとあった言葉を使う、そして言葉の内容と表情を一致させることを常に意識することが大切なのではないかと感じています。

(人材育成社)


ビットコインと信用

2014年03月02日 | コンサルティング

ビットコインの大手取引仲介会社「マウントゴックス」が経営破綻したことがニュースになっています。「ビットコインってなんだ?」という疑問をよく耳にしますが、テレビや新聞の解説を見てもさっぱりわからないという人も多いのではないでしょうか。

私はITの専門家でも経済学者でもないのですが、(無謀にも)自分なりに考えてみました。

結論:ひとことで言うならばビットコインは仮想の金(Gold)です。

実物の金(Gold)は鉱山に眠っていて掘り出すのに多大なコスト(労力や設備)がかかります。また、物質としても劣化しにくい上、埋蔵量に限りがあるという希少性がありますから、通貨として最適な物です。

一方、ビットコインも掘り出すのに多大なコストがかかります。掘り出し方は(参考)に示したホームページを参照してください。また、物質ではないので劣化しませんし、埋蔵量に限りがあるという希少性がありますから、これもまた通貨として最適なモノです。

ただし実際の金にもビットコインにも通貨としては少し不安な点があります。

金は物質なので管理が大変なことと、通貨以外にも工業用や装飾用などの使い道もあります。

ビットコインはなんと言ってもコンピュータ上の「データ」なので、今回のマウントゴックスのように「ハッキング」という脅威にさらされます。

さて、ここで私たちが使っているお金(おかね)とは何かを考えてみます。

財布の一万円札は印刷物ですからそれ自体ほとんど価値がありません。しかし、国が「一万円です」と言い切っていいます。それが非常に大事です。ここで注意する点は「言い切っている」だけで保証しているわけではないということです。

日本銀行に行って、「この一万円札を金(Gold)と交換して下さい」と言ってもしてくれません。(なんとアメリカでは1971年のニクソンショック以前には、ドルは金と交換(兌換)してくれました!)

ここで「おや?」と思われた方も多いでしょう。「でも、それって別に金(Gold)じゃなくてもいいよね。自分にとって一万円の価値がある何かと交換してくれるなら。」

そして、「でも、それってなにかな?お腹が減っていれば食べ物だし、そうでなければ服や靴かもしれないし・・・」と考えてしまいます。

こうして考えてみると、「自分にとって一万円の価値」というものがその時々で変わったりしてはっきり決めることができません。だいいち、1人1人の要求に対して「保証」なんてできません。

逆説的ですが、「保証」できないからこそ通貨(おかね)の出番があるわけです。

たくさんの人たちが「まあ、国がそこまで言うのなら」という「信用」のもとに、勝手に「一万円」の価値を食べ物や服につけて一万円札と交換するわけです。この交換過程=市場(しじょう)で「一万円の価値」が決まります。

その点では、ビットコインも同じです。

ただし、ビットコインには国のような中心にドンと構えている存在はありません。ビットコインを利用している人たち同士の「信用」の上に成り立っているからです。

したがって「信用」、つまり「そういうことにしておきましょう」という人たちだけがビットコインを使うならば、当然お金として通用するわけです。しかも国や金融機関のような「余計な」存在がないだけに、世界中どこでも自由に使えますから為替レートも関係ないし、送金手数料もかかりません。とても便利で効率的です。

そのかわり「余計な」存在である国には法律や警察、軍隊という「力」があります。万が一、何かが起こったらそうした「力」が役に立つことは明白です。

今後ビットコインがどのようになるか不明ですが、結局何らかの国際的な機関の管理下におかれるような気がします。

言ってみれば、第二のブレトン・ウッズ体制のようなものができるのではないでしょうか。経済学を学んだ者の端くれとしては、興味深々です。

・・・などと考えていたら、「そんなことを心配するよりもまずお金を稼ぐことが先でしょうが!」という声が。・・・そ、そのとおりです。

(参考)

http://www.bitcoin-info.com/bitcoin_miner.html

http://www.findai.com/yogo/0307.htm