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画鬼・河鍋暁斎 「狂斎」

2010年12月15日 11時15分50秒 | 文化・美術・文学・音楽


なぜ、暁斎は普通の読み方であるはずの「ぎょうさい」ではなく、「きょうさい」と読むのか。

「狂斎」と書いていた字を「暁斎」に改めたからである。漢和辞書を引いてみると、暁には「きょう」という読み方もある。

それには1870(明治3)年10月に起きた一つの事件が関係している。

その頃、江戸時代から続いている「書画会」という催しがあった。著名な絵描きや書の達人が大きな料亭に集まり、入場料を払って入ると、好きな人に好みの絵や書を目の前で書いてもらえるという即売会である。「席画」とも呼ばれた。

最近でも街頭で似顔絵描きを時に見かける。これを大掛かりにしたものと考えればいい。筆の速さでは定評のある暁斎は書画会の人気者で、一日に150枚から200枚も描いたという。

西部劇は学生時代、何でも見た。そのヒーローは速撃ちのガンマンだ。暁斎は訪ねてきたフランス人画家とお互いの肖像画を描き合い、速撃ちならぬ速描きを競ったことがある。残された作品を見ると、フランス人のは暁斎の顔だけなのに、暁斎のは服を着た全身像である。どちらが速かったかは自明だろう。出来栄えもはるかに優れている。

狂斎はいつも「絵師は何でも描けなければならない」と言っていたとおり、浮世絵、美人画、錦絵、仏画、さらに戯画、狂画、風刺画、本の挿絵まで、どんな注文にも即座に応ずることができた。

余りにも多才で作品数が多いので、生涯何点描いたかは不明。「その百分の一も見つかっていなのでは」と楠美さん。3,4歳の頃見た曽祖父の描く速さを覚えているという。

速描きだけではなく、それぞれの完成度も高い。書画会では、客からすすめられる酒を2,3本空け、次の日に何を描いたか覚えていないこともあったとか。こんな暁斎を「まるでバッカス(ギリシャ神話の酒の神)がとりついているようだ」と、弟子のコンドルは評したほどだ。

コンドルとは、お雇い外国人の英国人建築家ジョサイア・コンドルのことで、東京のニコライ堂、美術館として復元された丸の内の三菱一号館、鹿鳴館などを設計した。コンドルは暁斎の下に入門して熱心に修行して腕を上げ、「暁英」の雅号をもらったほど。

暁斎は、「酒乱斎」「酒中画鬼」「雷酔」という画号もあったというから、まさにバッカスだったわけだ。

事件は、上野不忍池の畔にあった料亭であった書画会で起きた。その席で狂斎は泥酔して、政府高官を小馬鹿にした戯画(一説には春画とも)を描いたとして捕まり、牢獄に入れられ、「笞(むち)50の刑」を受けて、釈放された。

これを機に、「暁斎」と改名したのである。暁には「さとる」という意味があるからだという。笞打ちの刑は、オーストラリアの歴史でよく知っているので、「日本にもあったのか」と感心した。

しかし、その後、狂画や風刺画を止めたかというと、そうではないのが、いかにも暁斎らしい。

幼名を周三郎。3歳でカエルを写生したほど、幼い頃から絵が好きで、7歳で浮世絵師で名高い歌川国芳に入門。10歳で駿河台狩野派の前村洞和に鞍替えした。

周三郎は、熱心なので、「餓鬼」ならぬ、狂ったように絵を描く「画鬼」と呼ばれて可愛がられた。洞和が病気になったので、駿河台狩野派の当主洞白のもとで19歳まで修行した。

安政2年(1855)の大地震の翌日、戯作(げさく)者として有名な仮名垣魯文と組んで、地震にちなんで鯰絵「老いなまづ」を出版、人気を博した。その後、「猩々(しょうじょう)狂斎」の画号で、戯画、狂画、風刺画で人気者になった。

少年時代の「画鬼」の愛称から影響を受けたのか、独立後の「狂斎」という画号にも、絵師ながら、江戸時代の物書きに多い戯作者のポーズが感じられる。魯文に感化されたのだろうか。赤ら顔の「猩々」は、飲ん兵衛の自分を卑下しているようだ。(写真は資料から借用した「文読む美人図」)