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画鬼・河鍋暁斎 蕨市

2010年12月13日 20時24分43秒 | 文化・美術・文学・音楽


「画家」という名前がつく前に、「絵師(絵の職人)」と呼ばれていた江戸時代の「絵かき」には、今の日本では想像もできないほど、桁違いにスケールが大きい巨人がいる。巨人というより「怪人」いや、人間を超えた「怪物」と呼んだほうがいい。

「画狂人」と名乗った葛飾北斎はもちろんその一人。その北斎に習って「狂斎」を画号とした「河鍋暁斎」。日本では知名度はまだ低いものの、欧米では浮世絵の葛飾北斎、安藤広重に次ぐ評価を得ている。

1831(天保2)年、茨城県古河市に武士の二男に生まれた暁斎は、明治中期の1889(明治22)年に東京・根岸で59歳で死んだ。

本人は、埼玉県や蕨市には全く縁はなかった。孫娘の代から第二次大戦中の強制疎開で赤羽へ、さらに1944(昭和19)年蕨市に移転した。

暁斎の遺作のコレクターであり研究家でもある、暁斎のひ孫に当たる蕨眼科医院長の河鍋楠美さん(医学博士)が1986(昭和61)年、蕨市南町4丁目に「河鍋暁斎記念美術館」 (写真)を立ち上げた。日本一小さな市の貴重な文化施設だ。

私が暁斎を知ったのはいつごろだろう。岩波文庫の「河鍋暁斎戯画集」が埃をかぶったまま本棚に積んであるので、第一冊が出た1988年ごろのことだ。 

急に身近になったのは、10年の文化の日、蕨宿商店街が開いた宿場まつりを見に行ったら、店に暁斎の作品が飾ってあった。昔を思い出して、人に尋ね尋ねて記念美術館まで自転車の脚を伸ばしたからだ。

自分では線も円も描けないのに、人の絵を見ることだけは大好き。これまでいくつの展覧会を見に行ったことだろう。現役時代、文学探訪ということで、現役時代ゴーギャンを訪ねてタヒチまで行ったこともある(終焉の地には行けなかったのが残念)。

その河鍋楠美さんが12月12日(日)に「蕨市立文化ホール くるる」で「河鍋暁斎 その人と美」と題する講演をされるという。一か月前からカレンダーに書きこみ、楽しみに待っていて、さいたま市から隣市に出かけた。

「くるる」は駅前で、誰でも分かる。市長も出席していて、挨拶した。なかなか暁斎のこともご存知のようで、その後も静聴していたのに感心した。

こんな面白い話を聞いたのは初めてだった。江戸っ子の楠見さんの歯切れのいい解説もさることながら、暁斎のすごさにほとほと感じ入った。

ウグイス色の和服が似合いの楠見さんは、結構のお年のよう、それでもパソコンのパワーポイントを駆使した見事なプレゼンテーション。私は、本業の後、10年近くPR稼業をやっていたので、うまさがよく分かる。講演の始まりは、「暁斎」を「ぎょうさい」ではなく、「きょうさい」と読んで下さい、だった。

暁斎の本質を一言で突いた言葉だ。私も前に、このブログで「蕨市 日本一のまち」を書いた時。あわてて「きょうさい」と書き直したことを思い出した。

楠美さんの話は、実に説得力があった。話を基に、私流に解釈すれば、暁斎の素晴らしさは、浮世絵、狩野派の基礎の上に、「速く何でも描ける」独自の画風と、酒好き。それにサービスとユーモア精神の過剰だろう。それがオーソドックスな画壇や評論家に排斥され、日本ではあまり知られていない。

私も酒好きなので、酒を飯代わりに飲んでいた横山大観に惚れ込んで、茨城県の五浦海岸まで日本美術院の研究所の跡を訪ねたこともある。暁斎と大観。「一緒に飲めば、どっちが強かったのか」と思うだけで楽しい。

NHKの「坂の上の雲」を見ていると秋山好古は毎晩、欠け茶碗一つで5合酒を飲んでいたという。当時はアルコール度が低かったのだろうか。「ほんとかな」と気になっている。飲ん兵衛の私もその量に圧倒されるばかりだ。


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