Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「水の中のナイフ」ロマン・ポランスキー

2013-06-27 02:14:41 | cinema
水の中のナイフNOZ W WODZIE
1962ポーランド
監督:ロマン・ポランスキー
脚本:ロマン・ポランスキー、イエジー・スコリモフスキ、ヤクブ・ゴルトベルク
撮影:イエジー・リップマン
音楽:クシシュトフ・コメダ
出演:レオン・ニェムチク、ヨランタ・ウメツカ、ジグムント・マラノヴィチ


ポランスキー長編第一作。
脚本はスコリモフスキと共作。

求められる結末を明示しないまま又路に佇む車のアップで終わる終幕が印象的。
当局には「どちらかの」結末を付け加えろと迫られたと言うことだ。

ポランスキー作品では例えば『ナインスゲート』でも肝心な結末には至らない。
2作目『反撥』でもそうだと言える。あるいは『ゴーストライター』では結末は明らかではあるが、その瞬間はフレームの外で起きている。そうした資質を始めから近作まで持ち続けていることは、なにやらポランスキーの作家矜恃の表れのような気がして感動的である。

3という数字がヨーロッパではそれなりに特別な意味のあるものであることは言うまでもないが、映画ではしばしば3人であることがドラマを駆動する。
例はいくらでもあるのでしょうが、ワタシの好きな映画では『明日に向かって撃て!』とか『はなればなれに』とか、それと密接した映画である『ドリーマーズ』とか。近くは『オブリビオン』もそうだったかもね。
『水の中のナイフ』脚本を書く上で最初に取り決めたことのひとつは、登場人物をあの3人に限る、ということだったということで、ここには彼らの映画的な野心のようなものが感じられる。

男2女1の三人組が隔離されると、そこに漂うのはやっぱり「微妙な雰囲気」でしょう(笑)
男二人の場の主導権争いとか、女との関係における優位権争いとか、そういう男たちの低レベルなw競争の結果実質場を握るのは女だったりして、彼女の振る舞いや男に対する評価の変化みたいなのがますます場をややこしくもりあげたりして。

そういう「機微」をきっちり描いているところは、むしろ几帳面に過ぎるほどである。
映画の力点はこの「機微」にあるわけで、ことが終わったあとに残された男女がどうするかはもはや映画のあとのことなのである。ここを外部化して終わるのは、もちろん映画の純度を高めるための選択であろうし、観客の想像力を掻き立てる効果でもあろうし、作家としてのセンスの領域のことであるだろう。

女だけが真実を知っていて、告白さえするのだが、男には真実は決してわからない。不安をたたえた引きのショットは心にのこる。

****

「3人」は多くは本作のように男2女1であることが多いような気がするが、女2男1の組み合わせでボートでクルーズする映画を昔昼間のTVで観た記憶があるのだが、今となってはタイトルもなにも定かではないのが残念。とても60年代くさい作風だったが。男が死ぬ。


ナイフという小道具がまた絶妙な効果をもたらしているのがかっこいい。主従関係を一気に決めてしまいそうでいて、決定的な力を決して行使しないあたり、全編を通じて不安定な空気を醸し出すのに成功している。



@イメージフォーラム

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