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Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「反撥」ロマン・ポランスキー

2013-06-25 00:07:14 | cinema
反撥REPULSION
1964イギリス
監督:ロマン・ポランスキー
脚本:ロマン・ポランスキー、ジェラール・ブラッシュ
出演:カトリーヌ・ドヌーヴ、イヴォンヌ・フルノー、ジョン・フレーザー ほか


心理サスペンスということになるだろうけど、ひとコマひとコマが謎めいていてまた謎の源泉を指し示しているような、一瞬も気の抜けない濃密な映画でした。

パンフによれば、ポランスキーはこの作品を商業的成功を目指しあまり思い入れなく作った、ということだが、むしろ作り手の思いはぎっしり詰まっている。どこか覚めた冷徹な視線がかえって作品の純度を高めているというところだろうか。

「反撥」は主人公キャロルが男性に示す病的な嫌悪のことを指すのだろう。嫌悪が高じて事件となるのだが、ここではその事件自体は結果に過ぎず、そこに至るまでのキャロルの「壊れていき方」が映画の主体だ。

同居姉が連れ込む男の所有物(髭剃りだ)や、言い寄る男友達や、好色そうな家主などがジワジワとキャロルを苦しめて追い詰めるのだが、観客は疑問を持つことになる。キャロルはなぜこんなに男を嫌悪するのか?

その謎は最後の最後まで解き明かされることはない。最後に至り、3度参照されることになる家族写真(そこには幼少のキャロルが家族たちとはひとり違うほうに顔を向けている)に、どうやら謎が潜んでいそうである、ということがほのめかされるに過ぎない。

幼少期の家族の中にあった何かが、キャロルの性質を作り上げているにしても、この解決の明示を避ける構造は、長編第一作「水の中のナイフ」を踏襲している。


壁や舗道の亀裂や、腐敗するウサギ、発芽するジャガイモ、髭剃りナイフの繰り返しなど、いろいろと面白い点が詰まっているのだが、ここでは「フランティック」が「洗顔映画」であったことの潜みに無理やりこじつけて、「反撥」も水の映画であることにこだわってみる。

冒頭瞳のクローズアップから美しい顔を画面いっぱいに広げるキャロルだが、彼女が壊れていくにつれて、だんだん霧吹きで吹いたような水滴を顔につけて登場するようになる。

あるいは姉の情夫の存在に気づく場所である洗面所には頻繁に出入りが繰り返され洗顔や歯磨き、さえ行われ、ついにはバスタブのお湯を溢れさせ洗面所を水浸しにしたりする。

最初の事件の被害者は定かな理由なくバスタブの水に漬けられる。そしてドラマ的なクライマックスである姉と情夫の帰還は、満を時して大雨の降りしきる夜に迎えられる。

この水の充溢に向かって突き進む映画の持つ意味はもちろんわかりようもないのだが(精神分析とかを引っ張ったりすると面白いのかもしれないがそんな技量もなく)、パンフには、編集の人(アラステア・マッキンタイア)が言うにはキャロルは無意識では姉の情夫に惹かれていたということなので、そことのつながりで、水はキャロルの無意識が表出してくることに符合しており、制御不能になるにつれ水が湧き出て、最後には情夫くんにお姫様抱っこされるという欲望の成就が豪雨の中演出されるという、そういう要素としてみることができるのかもしれないと、そう思ったりもするのです。

****


カトリーヌ・ドヌーヴは綺麗だけれど、シェルブールなどとは別人のようなぼんやり度であり、これもまたひとつの魅力であるねえ。
英語が若干たどたどしいのもいい。
(ポランスキー最初の英語長編だそうです)

瞳で始まり瞳で終わるみたいな円環構造風な感じは、作為的にすぎるものになる恐れがあると思いつつもやっぱりワタシはそういうの好みでして、好きだなー。


@イメージフォーラム
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