Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「YUKIDOKE」責任編集ntmymさん

2008-10-05 23:29:49 | book
ネットで(のみ)お知り合いのntmymさんから
ntmymさんが編集された同人誌「YUKIDOKE」が届きました。

届いたのはちょっと前になるんですけど、
意外と?中身が濃くて読み込むには至っておりません。
が、感想を書くぞっと決めたらまた読み方も違ってくるかも

ということで、感想を書くことに致します。

***

まず最初に楽しめるのは装丁です。
古き良き「文学」を感じさせるシンプルな本体装丁を覆うのは
ネコさんがテニスに興じるさまを描いたコミカルな「カバー」
「カバー」をつけたのはよいアイディアです。
一粒で二度美味しいし、美味しさの質も二種類です。


そして中身に入るわけですが・・・
今回つくづく思ったのですが、文章というものは、よくも悪くも一字一句がその世界の生成に深く関わっているのだなあと。
ムダとは言わないまでも、用心深さを欠いた数文字があるだけで、それはその文章が醸し出す世界の成り立ちを大きく損ねてしまう。

作品として存立させようとする文章の書き手はもちろんそのことを十分すぎるほどわかっているだろう。けれど、その試みが細部にわたり成就するかは最期までわからない。努力と才能と運の結実がどう転ぶかということでもあるし、もしかしたら、読者に読まれた瞬間に成否が明らかになるのかもしれない。

***

という意味で、「YUKIDOKE」のなかで、心から安心して言葉の流れに身を委ねることができたのは、百代紅葉さんの「つるにょうぼう」だった。(何となく意外な感じだけど。)
そぎ落とされた素朴な言葉遣いで、少しのムダもなく、若者の愛情の成長に焦点を合わせたこの小さな戯曲は、おこうの愛情に応えるためにどんなことでも受け入れようというまっすぐな精神をまっすぐに表現してとてもすがすがしい。
その愛の終わりも悲しいけれどなにがしか希望を育むようななにかを残したと思える。

あとがきにも書かれているように、若者は素朴だけれども愚かではない、という思いを動機に書かれたこの作品は、その動機に最後まで忠実に奉仕している。その正直さがよかったんだと思う。

****

あとは巻末のマンガ「サンショウウオ」by ntmym が好きだな~
これは連作「夢の記録」の一部のようなので、夢の記録なんでしょうか。
夢の怪しげな論理は記録することはわりと簡単だが、その夢を覚えていて思い出すときのあの言い表しがたい、ノスタルジアに似た感覚を表現するのはムズカシイ。
なつかしく、ユーモアにあふれ、さびしく、不思議な・・
マンガという形式がそれを表現するのに適していることを「サンショウウオ」は教えてくれる。
ほかにも読んでみたい。マンガ。


あとの作品も決してつまらなかったわけではないが、
上で書いたように、唯一無二の言葉という緊張感でもって見ると、ときおり世界が揺らいでしまう部分を持っているように思える。

言うは易し、行うは難し。
ワタシにそれだけのことができるかといったら自信はないですけどね。
同人の皆さん、引き続き頑張って精進してください。
ワタシも頑張ります。
続編?第二弾?も楽しみにしておりますよ~






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「未成年」ドストエフスキー

2008-10-04 22:16:25 | book
未成年 上巻 改版 (1) (新潮文庫 ト 1-20)
ドストエフスキー
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未成年 下巻 改版 (3) (新潮文庫 ト 1-21)
ドストエフスキー
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未成年

こいつはどう切り込んでいけばいいのか~?
主人公のドルゴルーキーくんは、未成年らしく(いや、未成年らしからぬ?)高い理想や思想を求め、理知的で分別を持つことを望み、高尚な人間関係を求め、世の混迷を否定し、これらにふさわしい言動をこころがけ、しかし世のダイナミックな移ろいや混濁の前に都度困惑し動揺し感情の高ぶりをみせ、そしてそうした自分を低いものとしてみると同時に、あくまで自分には理想があるという高さも自負する・・・という、ああ、まどろっこしいヤツだ(笑)まっすぐなところも屈折した面もそれぞれに極端に振れる未成年を主人公に、ロシアの、時代の世相を浮き彫りにしつつ、人間の精神の成長のありようを描いちゃおうという、毎度ながら全体小説を目指したドストエフスキーらしい作品でありました。

ドルゴルーキーくんは悲しい境遇ながらもそれなりに財政的にも精神的にも基盤を持ち純粋培養された青年であるのに対し、世相は、農奴解放・無神論の横行・共産主義・拝欧・ロシア(自国)蔑視などなどの精神的動乱期である。動乱を反映してか、ドルゴくんの出会う人物は種々様々だ。父への憧憬と軋轢や友人の裏切りや悪意、女性たちの純粋ながら世知辛い態度などに一喜一憂し、元気になったかと思うと熱病にかかる彼に、文章はひっしりとよりそっていく。彼と一緒にくらし、苦楽をともにしているような錯覚を覚えるほどだ。

あの時代のロシアを青年として生きるということは、こういうジェットコースター的激情を生きるということだったんだろうか。今の日本の青年はどんな精神を生きているだろう。19世紀末ロシアとはかなり違うだろうけれど、やはり激動の時代であることは間違いない。親の世代は子に信念に満ちた未来への道を提示できない。子は指標を渇望しながらも、権威に導かれることを拒否する。高邁であるかはともかくもそれなりの理想を抱きつつ、それが実現できない重圧を感じている。そんな青少年はこれを読んで、直に指標にはならないだろうけど、世の中を考える視野を広げる一助にしてほしいなあとは思うけど、今の迷える未成年はドストエフスキーなんか読まないかなあ。。

***

やっぱり「悪霊」「罪と罰」などに比べると精神のダイナミズムが読者に与えるインパクトという点ではやや普遍性に欠けるかもしれない。このあたりが長編でありながらなんとなく地味な扱いを受ける理由だろう。回想手記という手法もそのダイナミズムのあり方に影響しているだろう。物語展開の都度、手記を書いている「現在」のわたし=ドルゴくんの見解がはさまれるので、いちいち物語から引き離される。手法的にはそこが面白いところではあるんだけれどね。

****

ドストさんらしい崇高な魂は、この作品では農奴で下男出身の、ドルゴくんの法律上の父親であるマカールが体現する。妻や主人に事実上裏切られながらも隣人を愛し、巡礼の旅に身を投じ、死の床につくためにドルゴくんや妻の住む家に現れる。彼の言葉は周囲の者の心に深い影響を与え、そのような影響力のない「新しい」思想を相対的に弱いものに感じさせる。

彼の光り輝く存在は、「白痴」のムイシュキン公爵、「罪と罰」のソーニャ、「カラマーゾフ~」のアリョーシャの系譜だ。人間にとっての善美とはなにかという問いに対して、普遍的な答えを求めるものにとってはおおいに影響力のある人物像だろう。たとえその答えがロシア的風土や時代背景と無縁ではないとしても。




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「2001年宇宙の旅」スタンリー・キューブリック

2008-10-02 00:45:40 | cinema
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2001年宇宙の旅
1968アメリカ/イギリス
監督:スタンリー・キューブリック
脚本:スタンリー・キューブリック、アーサー・C・クラーク
出演:ケア・デュリア、ゲイリー・ロックウッド


劇場以外でこれを観るのははじめてであるが・・・さすがに20インチとはいえパソコンでは画面が小さい^^;
冒頭の星の直列とか、宇宙ステーションとかの迫力はスクリーンとはまるで違う。という当たり前のことをひしひしと感じる。

しかし、たとえこれが47型液晶TVであったとしても大きさは足りんだろう。もともとシネラマ作品なので。シネラマでの上映はもはやかなわぬ夢であるが、せめて70mm比率再現版てヤツで劇場で観たい。


というのも、これは本筋が謎めいてなんだか哲学的なので、そこにメッセージがあるように思えるが、それはそれとして、大技から小技からあらゆる瞬間に映像の冒険と快楽が炸裂しっぱなしの、映像で魅せることにはるかな重きを置いた作品なのだ~と思うからだ。

なにしろいまだに「これいったいどうやって撮ったんだ?」という素朴な驚きを禁じえない凝った画面つくりには脱帽だ。虚空に浮かぶステーション(まだ建設途上ぽいところもいい)や月面探査船の窓々にいちいち小さく動く人影であるとか、遠心力による重力が働いている円形の床に下りてくる人の向こうに、さかさまに座ってもぐもぐ食事をしている人が写るとか、こけおどし的であるけれど妙に説得力のあるこの感覚。低予算B級SFも味わいがあるが、こういうお金をかけたSF映画の醍醐味をしっかり体現している。画面の隅々まで小技が効いている快楽はおそらく特撮のダグラス・トレンブルの手によって後に『ブレードランナー』により全開となることだろう。そういう隅々を大画面であますところなく堪能/探検/発見したい!そういう映画だ。

ん?こういう映画がどこかにあったような・・・隅々まで動いているという・・・タチの『プレイタイム』かな?(あれは実は隅々が「止まっている」映画でもあるが(笑))↑これも70mm

*****

にしても、こまごまと、当時の未来像と現実の21世紀のずれが感じられて、それはそれでまた面白いのだ。
たとえば電話。フロイド博士が、ステーションから地球にいる娘(キューブリックの実娘だ!)に電話をするシーンがあるが、その電話ブースのどでかいこと!!
平気に3畳間ほどもありそうなブースにばかでかい機械がでん!と置いてあって、実現するのがたった1台のTV電話だけ・・・(笑)
すごい非効率なかんじがするぞっ!!
その電話の作りとHAL9000との間にあるテクノロジーの大きな差は何?

*****


前半の人類とモノリスの出会いは割りと説明的なのだが、後半のデイブがディスカバリー号を後にするところからの展開は一切の説明を排除し、視覚効果的にも舞台設定的にも謎めいてくる。ここら辺が若き頃のワタシには非常にツボであった。(今でもね)
大宇宙の果てにいきなり出現する部屋のイメージは、時空を越えた果ての静けさ、終焉と誕生の静謐さをよく表現していて、忘れえぬ印象をもたらす。

いいなあ~これぞSF映画の原点といえましょう。


あと昔驚いたのは音楽。リヒャルトやヨハンには驚かなかったが、リゲティには驚いた。こんな音楽があるんだ!と若きワタシはぶっ飛び、即座にリゲティの音盤を求めた。当時リゲティに印税が支払われていないことなど露知らず。それからディスカバリー号が登場する際のハチャトゥリアンによるアダージョ。これもよい。ハチャトゥリアンといえば「剣の舞」だが、まったくイメージの違う「アダージョ」は同じ組曲「ガヤネー」からの作品だ。

サントラが欲しいが、サントラといえば『時計じかけのオレンジ』の1シーンでレコードショップの棚にちらりと「2001年」のサントラ盤が写るのも思い出される。



・・・なんか愚にもつかぬ思いつきばかりになってしまったな。
とにかく、映像と音を楽しむエンタテインメント大作と思って観てるワタシでした。

デイヴ、ストップ。ストップ、デイヴ
で~いじ~ で~いじ~




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