Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「モレク神」アレクサンドル・ソクーロフ

2008-02-04 22:36:19 | cinema
アレクサンドル・ソクーロフ DVD-BOX 2

紀伊國屋書店

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モレク神MOLOKH
1999ロシア/ドイツ/日本/イタリア/フランス
監督:アレクサンドル・ソクーロフ
脚本:ユーリー・アラボフ
撮影:アレクセイ・フョードロフ
出演:エレーナ・ルファーノヴァ、レオニード・モズゴヴォイ

ものすごい楽しみにして観に行ったのに寝てしまったのだ(苦笑)
というわけで、断片の感想のみ。

おそらく全編、ちょっと粒子の粗い感じの青を基調とした画面で、ほとんど音楽的盛り上がりはなく、しかしどこからともなく聞こえるノイズなどが、これまたどこからともなく漂ってくる霞と呼応するように、画面に不思議な緊張感を与えている(ように思えた。寝てたし。)。
「太陽」はセピア調の、歳を経て色あせた和紙のような肌触りだったのに対し、この青と霞は、どこまでも寒々しい石造りの建物の温度を感じさせるヨーロッパの肌触りだ(と思う。ヨーロッパで暮らしたことはないからね)。

この温度感のなか、冒頭なにやらアクロバットな体操を見せるのはエヴァだったのかな?あれは。これからして、20世紀を圧倒した独裁者のイメージとは離れたところから始まる(あ、いや、体操というのはナチユーゲント的か?)この映画、おそらくは全編、エヴァや側近と過ごすプライヴェートなヒトラーの世間話と独白とで成り立っている。(と思う)。世間話や独白には内容的には緊迫した国際情勢が語られていても、どこか実感のない別世界のことのようだ。緊迫をよそに山中をピクニックするヒトラー一行を包むのは、やはり青白い山肌と霞。

独裁者の人間としての姿=神性の終焉を描くのに、こうした質感や音響の特殊技術にこだわるところが面白いと思うのだ。「太陽」においても前述のセピア調や、夢と廃墟のぬかるみめいた青緑が、日本のある種の文化の終焉にふさわしい質感だったことを思い出す。
バーバルなコミュニケーション以上のものを信じ、目指している作家の作品として堪能に耐えるね。(寝ちゃったけどね)

*****

同じくヒトラーの最期を描いた作品にオリヴァー・ヒルシュビーゲル「ヒトラー ~最期の12日間~」があるが、あちらは実際起きたであろうやり取りをあますところなく活写する、能動的な迫力を持っていた。
あちらが人間としての独裁者像を結ぶことに尽力したとするならば、ソクーロフのヒトラーは、神性の終焉のポイントがどこにあったのかを探すことを主眼に置いているのだと思う。両者は結果驚くほど違う像を結ぶ。もしヒルシュピーゲル版が前に存在していたら、ソクーロフは「モレク神」を撮っただろうか。(撮ったと思うな)

あと、ヒトラーと、同じくソクーロフによるレーニンの肖像が、彼らの人生の終わりを描いているのに対し、「太陽」での裕仁では、彼の人生の終わりではなく、終戦のときを神性の喪失のときととらえているのも的確であっただろう、とも思う。


なとこでおしまい。

もっかい観たい!^^;



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