エイリアン320世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパンこのアイテムの詳細を見る |
1992アメリカ
監督:デヴィッド・フィンチャー
出演:シガーニー・ウィーヴァー、チャールズ・S・ダットン、チャールズ・ダンス
「2」を飛ばして「3」を鑑賞。
下知識なしでみたので、「2」であんなに精一杯守った少女が、
冒頭いともあっさり、しかも悲惨な境遇で死んでしまうことにショックを受けた。
そんなばかな・・・
でも一方で、これが宇宙の現実なのかもしれない、このくらいのやりきれなさの強度がないと「3」をつくる意味がないという気もした。
外界は零下40度の極寒、
地球から遠く離れた惑星に弧絶する刑務所に
リプリーたちの乗る緊急避難船が激突する。
ただひとり生き残るリプリー。(つくづく運のいい人だ)
刑務所内の診察室で眼を覚ますと、そこはならずもの男達だけの閉鎖世界。
男たちの欲望を刺激しながらも回復するリプリー。
そこへ、一人の囚人の死亡事故が起きる。巨大な換気扇に巻き込まれたのだ。
しかし現場には金属がやけただれたような跡が・・・
あいつだ・・・
・・で、あとは囚人たちとリプリーによる、エイリアンとの死闘なわけだ。
閉鎖環境と少人数の恐怖。
エイリアン1体で巻き起こされるパニック。
生き残りを賭けた人知の極限。
思うに、「3」は、「1」の持つシンプルかつ根源的な恐怖の再現を志したものなのではなかろうか。
余分な伏線がいっぱい張られては尻つぼみになるのも、
本当はそんな伏線はどうでもよいと監督が心の底で思っていたことの表れなのではなかろうか。
医者とのちょっとしたロマンスも、エイリアンが犬型であることも、所長が現実を直視しない暴君的性格であることも、
ならずもの集団が突然あらわれた女に動揺することも、そうしたいっさいがっさいがなにもかもが中途半端な点は、
きっと制作側と監督との意見のすれちがいから起こることなのだと、冷めた眼で観ることにしよう。
冒頭の葬儀のイメージが、ラストのリプリーの姿と重なるつくりになっているところはなかなかよい出来だと思う。
この映画で一番美しいシーンだ。それが冒頭とラストにあるのが憎いつくり。
リプリーの最期も胸にせまる。
なんというか、ここまでつきあったエイリアンなのだ。
最期の最期まで、しっかり胸に抱いて冥府へつれて行くなんて。
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エイリアンシリーズの特徴は、
これだけ人が死んでいっているのに、地球はあくまでも遠く、
これらの出来事は彼等の雇い主である「企業」以外、地球で知る者はないという、
「人知れず感」にあると思う。
恐怖がなんとなく「根源的」に思えるのは、この人知れず起きているという感覚に根ざすのではないかと思う。
結局最期もリプリー一人がすべてを持って消えてゆくわけで、この閉塞的な終焉はシリーズの最後にふさわしいものだったのではないかしら。
なので、「4」は未見だけれど、「3」で終わってしまったほうがよかったのではなかろうか。
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そうそう、
音楽はあ ま り に もベタだったなあ。
特にエイリアンを鉛の海に沈めたところなんか、もう赤面するくらいにハリウッド的。
ええ、いかにもどんでん返しのための布石です~といわんばかりで、面食らう。
もうちょっと無機質な音が未来SFサスペンスには似合うと思うのだ。