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1991デンマーク/フランス/ドイツ/スウェーデン
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
ナレーション:マックス・フォン・シドー
出演:ジャン=マルク・バール、エディ・コンスタンティーヌ、バルバラ・スコヴァ
どうも気になって観てしまうトリアー
観る人をワナに陥れて、そこから逃れられないように仕組む、
そんな映画づくりがどうも癪にさわるんだけれど、
なぜだかドつぼ感の濃密さが私を呼ぶのです。
掟破りなのは、主人公の視線を観客の視線なのだとバラしてしまうこと。
それから、物語の運びを、マジックのような、催眠術のようなナレーションで先にバラしてしまうこと。
映画としてのリアリズムも反リアリズムも、どちらからも距離をとって、
いかにもうさん臭い時間をつくりだすこと。
このうさん臭さが独特の臭さ。
**
理想主義的な動機から、終戦直後、
よりによって戦勝国アメリカから、敗戦国ドイツに移り住む若者。
しかしそこは混沌と怨念の渦巻くあのヨーロッパ。
若者は寝台列車の乗務員の仕事を得るが、乗務する列車こそ、ドイツの縮図だった。
(「縮図」が得意な監督だなあ。)
進む列車を中心に物語は展開するが、エピソードは列車の窓の外に、幻想のように広がっている。
回想なのか幻想なのかわからないつくりになっているのが面白い。
叔父と出会い、鉄道会社への就職を世話された青年。なぜか社長一家の夕食に招待され、親交を深める。
社長の娘と恋いに落ち、結婚する。
しかし敗戦を背景に連合国と関係の深い社長には、残党ナチシンパから脅迫状が届いている。
ドイツ社会の復興への意志と連合国との癒着に挟まれ、社長は自ら・・・・
そして脅迫状を送ったのは実は・・・・・・・
こうした社会情勢のやりきれない物語が、列車の外で繰り広げられる一方、車内にはひたすら乗務を続ける当の若者。
彼はしらずしらずナチシンパに利用され、乗っている列車の爆破を強要される。
爆破をするか、それを阻止すべく密告をするか。
悩む彼にさらに窮地に追い込むように、抜き打ち昇進検査が入る。
極限の精神状態のなか、いったんは爆破をしかけながら、寸前で阻止。
しかし検査官は次々に課題を投げてくるし、乗客はクレームを付ける。
妻は組織に連れ去られ、別れを告げる。
「ヨーロッパにきてから、みんなが俺を苦しめる!」
切れた彼はとうとう・・・・・・
***
暴力的に崩壊したヨーロッパという共同体。
それに統一性を求めて同一化しようとする若者。
しかしその幻想に反して次第にほころびや矛盾を突きつけてくる共同体。
愛でさえ欺瞞や矛盾と無縁でない世界。
それを浮き彫りにしようというトリアーの意図はよくわかる。
でも、最後に(幻想)共同体をばらばらにしてすべてちゃらにしてしまうというのは、どうもよくわからない。
近作の「ドッグヴィル」にも通じるけれど、暴力に暴力で対峙してしかも一種カタルシスのようなものすら与えてしまう結末は、どうにも理解を超えている。
結末とは、どこまでも続く悪夢をとりあえず強制終了させる手段にすぎないということだろうか。
だとしたら、作り手はどこまでも救いのないビジョンを抱えて、どこまでも映画=悪夢を紡いでいく他ないのだろう。
この絶望感の独特な姿に、嫌悪と興味を抱く私なのだった。
続く
(いや続かないっす)