Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

ジャン=リュック・ゴダール「アワーミュージック」

2006-03-20 13:00:36 | cinema
ゴダール「アワーミュージック」

2004フランス/スイス
監督・脚本:ジャン=リュック・ゴダール

1 地獄篇・・・資料映像のパッチワークで、人間の殺戮の歴史がつづられる。
        ときおり挟まれるナレーション
        「生存者がいるのが不思議なくらいだ」
2 煉獄篇・・・サラエヴォに招かれる作家たち。
        その中にゴダール本人が含まれている。
        「サラエヴォ・ノート」のゴイティソーロもいる。
        映像とテキストについて、ゴダールが講演をする。
        示されるいくつかの写真。
        聴講者のひとりオルガは一人眼を閉じて聴き入る。
        後日、ゴダールは自宅でオルガの死の知らせを聞く。
3 天国・・・・オルガが日差しのなか、湖の畔を歩く。
        幻のスタンプ(出国許可?)を腕に押され、湖へ続く門を出る。

残ったこと
○インディアンが朗読する詩句。
「そろそろ同世代の我々が出会うべき時だ。同じ土地のよそ者同士として」

異なる民族・異なる文化の共存という点では、その概念にしろ、そのことについて考える習慣にしろ、ヨーロッパに比べ日本ではひどく未成熟なのだということに思い至る。

この詩句の持つ真摯な訴えを、ゴダールが真正面からぶつけてきたことは、驚きであるとともに、ここまで来てしまった世界のことを思わざるを得ない。

異質であることを踏まえながら共存していくことへの思い。


○切り返しショットを表す二つの写真
ハワード・ホークスの映画の引用だそうだ。
電話をかける男女の写真は、左右逆な以外、まったく同質の構図だ。
そして、ゴダールの言葉。「両者はまったくよく似ている。監督が区別できなかったからだ」

これまでの我々の「他者」とはこの強烈な対称性の中での他者にすぎなかった。
同質性にもとづく同一性。
これに対峙して置いてみるのは、まったく対称性のない切り返し。
非対称性のなかでの他者をどう描いてゆくのか。
そのとき映画はどのような姿になるのか。
非対称性の文化の共存をどう世界は描いてゆくのか。
そのとき世界はどのような姿になるのか。

○デジタルカメラは世界を救うと思いますか?という問いに対して。
ゴダールの・・・長い沈黙
バッハのカンタータ160シンフォニアのピアノ編曲版が流れる。

○地獄篇でヒロシマの映像を探したが見つからなかった。
 インタビューによると使用しているらしい。そして「日本人はすぐに広島とわかるかどうか興味がある」、とも・・
 わからなかった・・それだけ廃墟のイメージは似通っているのか、単に自分がうかつなのか・・

***

サラエヴォは同じ土地のよそ者同士が共存する希望に満ちたコスモポリスだったが、90年代にバランスは崩れ、隣人が憎しみあい殺しあった。
そこは未来への希望が潰えた、現代の「絶望」を象徴する土地である。
その場所から今度はイスラエルとパレスチナの関係について解き起こそうというゴダールの試みは、希望を意味するのか絶望なのか。

一度観ただけではわからなかった。
コメント (2)
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