Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

ラース・フォン・トリアー「ドッグヴィル」

2006-03-14 13:10:29 | cinema
ドッグヴィル スタンダード・エディション

ジェネオン エンタテインメント

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ドッグヴィル
2003デンマーク
監督・脚本:ラース・フォン・トリアー
撮影: アンソニー・ドッド・マントル
出演: ニコール・キッドマン、ポール・ベタニー
ナレーション:ジョン・ハート

ギャングに追われる謎の美女グレース。迷い込んだのは人里離れた小さな村「ドッグヴィル」。村人はグレースの扱いについて集会を開く。かくまうべきか追い出すべきか・・・
グレースは2週間の猶予をもらい、村にとけ込もうとする。村人トムの助言に従って、すべての家を訪ね、小さな仕事から手伝いを始め、次第に村人とうち解けてゆくグレース。
しかし、ある日警察が村にやってきて、グレースの手配書を貼る。これを機に、村人とグレースの関係が徐々に変化し始める・・醜くゆがんでゆく人間関係・・そしてついに恐るべき結末が訪れる。

後味悪い映画を作らせると天下一品のラース・フォン・トリアー監督の、これまたしっかり後味の悪い一作だ。

床に家や道を表す線を引いただけで、あとは家具や壁の一部などの最小限のセットだけ、というセットにまず驚かされる。カメラも揺れ動くハンドカメラが主体で、ときおり村全体を見下ろす天井(?)からの俯瞰が挟まれる。
出演者は存在しないドアを開けて家を出入りすると、ドアの開け閉めする音が聞こえる。
セットは演劇的だけれど、そこに繰り広げられるのは見る者の想像力を刺激する不思議な映画的リアリティだ。

おそらくはアメリカの縮図と考えてよい閉鎖的な共同体が舞台だ。貧しく、希望のない、それでも粛々と続く日常。
そしてそこへ放り込まれる突然の他者。共同体はどのようにしてそれを受け入れ、またどのようにそれを疎んじ、どのように扱うのか。
そのプロセスがこの映画の後味悪さの中心だ。

理性や慈愛の念と同居する、欲望や本能に根ざす妬みや恨み。
そうした欺瞞を持ちながらそれを暗黙のうちに共有し、温存しながら存続する共同体の原理。
似つかわしくない美女を放り込むことによって、そうした村の暗部が容赦なくむき出しになってゆく。
この暗部の毒気の濃度を徐々に高めながらラストへと向かうこの映画、そのラストシーンもまた、??考えさせる。

共同体の持つ欺瞞の罪はいったい誰の罪なのか?一人一人に撮るべき責任は、償うべき罪はあるのか?それとも貧困や環境にこそ罪はあるのか?
環境に罪があるとして人々を許すのは、寛容なのか傲慢なのか?
罪を償う機会を与えることこそ謙虚な考えなのか?
根元的な問を列挙して解決しないまま、映画はある一つの道を選んで終わる。

それは何の答にもなっていないにもかかわらず、映画のクライマックスでありカタルシスにさえなっているところが、また恐ろしい。
すなわち裏を返せば、この映画のもっとも難解で受け入れがたい瞬間がよりによって最後にやってくるのだ。

ああ後味悪い。

でもこの後味悪さ、ちょっと忘れがたい。

**

このオープンなセットは、共同体の性質をよく表現していて面白いと思った。
(プライバシーがあるようで、隣の事情は筒抜けという感じ)

自動車はすべて本物を使っていたのも面白い。
移動は唯一外世界を象徴するものだから、実体があるのかな。

エンドロールで流れるデヴィッド・ボウイのヤング・アメリカンがまた象徴的。
その間の、貧困層を写した写真も意味ありげで、これまた後味悪い。

↓ここの無料放送で観ました。
 ときどきCMがはさまれるのがうざいんですが、無料なので我慢・・・・
gyao

続編が近日公開ですね。

***
<追記>
トリアーといえば「ドグマ95」
しかし「ドッグヴィル」はドグマの考え方とは大きく異なる作品になっている。
(当然ドグマ95のクレジットはなかった)
むしろ積極的にアンチドグマ的な映画になっている。
(完全セット撮影、殺人や銃のシーンなど)
このあたりの変節の経緯を知りたいな。
ドグマ95
コメント (11)
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