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Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

夢こそがすべて・・ニキ・ド・サンファル展

2006-05-15 13:06:31 | art
於:大丸ミュージアム東京
5月11日~22日(月)

没後初の回顧展ということで、初期の絵画作品にはじまって、ニキの創作の軌跡を追った展示だった。



有名な「NANA」のシリーズを見るといつも「土偶」と思ってしまう。
大地豊穣の母、グレートマザーのイメージ。

しかしこの豊穣は、伝統社会や文明のなかで培われたものではない。
ニキという個人の内面を徹底的に掘り下げた結果出てきた物なのだ。
そこがすごいと思う。

神経症からの癒しとして描かれた初期の絵画から、
グロテスクなオブジェ、射撃絵画といった前衛の時代を経て、
NANAに代表されるポップでユーモラスな立像へ。
その軌跡は、内面の吐露から、それの破壊、そして再構築、その絶えざるくりかえしだったのだ。

特に前衛の時代は壮絶だ。内面にかなりぐちゃぐちゃ詰め込まれたものがあって、しかもそれを一度ならず何度か打ち壊しては再構築していったんだなあ、とそんな印象だ。

また、「力」というリトグラフのシリーズがあって、獰猛な竜に手綱がついていて、それを女性が握っている絵柄のシリーズ。
女性(=自分)の内面には獰猛な竜がいて、女性は御しがたいそれをなんとか手なずけていく、という構図は、
ニキの内面の激しさとともに、それを自覚しつつ、ポップで包容力のある作品として昇華していった彼女のしたたかさを感じさせた。


夫となったジャン・ティンゲリのことば、「技術ではない、夢こそが全てだ」という言葉のみに勇気づけられて、原初の衝動やただひたすら自分自身をみつめることによって、自由な女性としての豊穣や成熟の表現を、ひとり黙々と発見し表現していったニキの軌跡がよくわかる展示だった、という点ではなかなか成功した回顧展ではないかしら。

ただ、大型の作品の数が少なく、物足りない。
会場のキャパの問題もあろうが、神秘的でユーモラスでもある古代の神々の像とかがあったらもっと全体像がつかめただろうと想像する。

まあ、また機会があったら那須に出向くのもいいかも。
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東京ベルリン展at 森美術館

2006-05-04 22:29:22 | art
東京ベルリン/ベルリン東京展

19世紀末から現代までの、両都市の交流を、芸術の視点でたどる展覧会。
といっても、なかなか展示を観るだけではその交流のダイナミズムはよくわからないというのが正直なところ。
何事もプロセスや影響を形にするのは、むずかしい。

分かりやすいのは建築とか、ベルリン・ダダの日本への影響とか。
分かりにくいのは、フルクサスやハイ・レッド・センターの動向まで含まれていること。

ちょっと勉強しないとピンと来ない展示だろう。

にもかかわらず、結構な人出だった。落ち着いてみることもかなわず。

残ったものは・・・
クルト・シュヴィッタースのコラージュが数点あったこと
(ちゃんとMERZ XXXと番号が振ってあった)
アインシュタインタワーという、アインシュタインが相対性理論を実証するために作られた建物があったこと
(聞いたことない話だなあ)
古賀春江の「窓外の化粧」の現物を観たこと
(神奈川県立近代美術館所蔵だそうです)
赤瀬川源平の「千円札」の現物を観たこと
(いいな~赤瀬川)
フルクサスの「ハプニング」のビデオ映像があったこと
(映像でみても面白くないけど)

こんなところでしょうか。

観終わってから展望台をぐるりとまわり、
(この日はこどもの日にちなみ、子供は入場タダでした!)
下に降りてスタバで初バナナモカフラペチーノ。
(テラス席で食べたら寒かったけど・・)
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ニキ・ド・サンファル展

2006-05-03 02:44:10 | art
ニキ・ド・サンファル展

行きたい。
なぜか惹かれるのである。
作品は意外と生でみると吸引力がある。
単なるグロ・ポップじゃないところに根を張っているんだと思う。
それはニキの出自と経歴をやっぱり反映しているからなんだろうと想像する。

那須にあるニキ美術館
以前冬にいったことがあるが、あそこに行くのが一番正解なのかもしれない。
自然と対置する姿をみると、やっぱり感じ方もちがうもんだし、晩年のニキも
そのような力場を求めていたのだろうと思う。

忘れないで行こう。
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ナムジュン・パイク

2006-02-05 02:55:15 | art
韓国生まれのアーティスト、ナムジュン・パイクが亡くなっていたのをようやく知った。

50年代にすでにTVによるアートを製作し、その後もヴィデオアートの分野で活躍した。

といってもいわゆる映像作家じゃない。
TVモニターとチェロを合体させて演奏パフォーマンスをしてみたり、
ヴィデオモニターを随所に配置した庭を作ってみたり、と、
モニターに写るものと外界との関わりを求めていたような作風だった。

よくあるヴィデオインスタレーションのアート臭さとは違った、
一種独特なユーモア感覚があって好きだったな。

特に80年代、ヴィデオ技術が一般的になって活躍したと思う。
もう20年近く前にパイク展に行ったことを思い出す。


"TV Cello"
演奏者が乳癌になってしまったという逸話を持つ。



"TV Budda"
これ好きだったな。仏像が自分の写ったモニターをじっと見つめる。

wikipediaナムジュン・パイク

ご冥福を・・・・
ああ80年代はもう20年も前のことなんだな・・・
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シュヴァンクマイエル「GAUDIA」

2006-01-17 12:55:31 | art
GAUDIA 造形と映像の魔術師 シュヴァンクマイエル―幻想の古都プラハから

求龍堂

このアイテムの詳細を見る


チェコの映像・絵画・オブジェ作家シュヴァンクマイエル夫妻の作品図録を購入。
昨年9月~11月に神奈川県立近代美術館葉山で開催された「GAUDIA展」の図録が書籍になって上梓されたもの。

「GAUDIA」はラテン語で「悦び、楽しみ、慰み」の意。
「GAUDIA展」は「マニエリスム的な蒐集物の陳列室」として構想されたもので、現代の、理性的で実用的、功利的な文明に対立する、グロテスク、遊戯、魔術の三位一体を柱とする世界の窓となることを目的としている。

確かに、ここにあつめられた絵画・オブジェ・コラージュ・スケッチの奇想たるや、異界への窓といって間違いない。

「シュヴァンク=マイヤー百科事典」シリーズにおける図版での異形の生物たち。それらを具現化したような驚愕のオブジェたち。
触覚にこだわった絵画やオブジェ。
グロテスクなエロティシズムに溢れた絵画やオブジェ。

おそらくそれらであふれかえる展示室はまさに現代が抑圧した魔術的世界での蒐集物陳列室の様相を呈したに違いない。
展覧会に行けなかったのがますます残念。

それにしても、1950年代から続く創作は精力的で、この間のチェコの変動を思うとまったく頭が下がる。


「博物誌のキャビネット4」(クリックで拡大)


「生と死をめぐる対話」(クリックで拡大)
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キアロスクーロ/ピラネージ

2005-11-23 16:07:44 | art
国立西洋美術館で開催中の「キアロスクーロ-ルネサンスとバロックの多色木版画」展に行く。

キアロスクーロとは、イタリア語で「明暗」を意味する言葉だそうで、同系色の版を重ね合わせて刷ることにより、微妙な明暗や立体感を出す木版画の技法を指す。
この技法は16世紀初めのドイツで発明され、イタリアで発展し、フランドル、オランダ、イギリス、フランスに広まり、しかし18世紀には廃れたということだ。

版画はわりと好きなのだが、この技法については今まで聞いたこともなかった。大変勉強になりました。

どういう技法かはやはり百聞は一見にしかず、見に行ってなるほど~とようやく納得できた。
おそらく極めるには歳月のかかる技法なのだろう。同じ作家でも作品によって技巧的な優劣が見られて面白い。

館内の解説にあったが、同様の多色木版画に日本の浮世絵がある。
しかし、キアロスクーロが、あくまで素描による陰影の表現に版画を近づける試みであったのに対し、浮世絵は立体感や遠近法とは違った色彩豊かな表現になったというのはこれまた面白い。
展示作品は全てモノトーンの陰影によるもので、題材も西洋的なもの、聖書やギリシャ神話である。
同じ技法でも西洋と東洋では目指すものがこうも違うんだなあ。

国立西洋美術館
キアロスクーロ―ルネサンスとバロックの多色木版画 フリッツ・ルフト・コレクションの所蔵作品による/レッツエンジョイ東京

**

同美術館の版画素描室では「ローマの景観:ピラネージのまなざし」も開かれていた。
こいつがまたぐぐっとくる細密な銅版画。この緻密な立体感はツボだ~

ピラネージは18世紀イタリアの版画家で、精力的にローマの景観や古代遺跡の連作を制作した。これがすごい作品群で、よくぞここまで心血を注いだなという、大判で緻密な版画が45点ほど展示してあった。

いやー見てヨカッタ。



ピラネージ画像データベース

**

他には、美術館の常設展示もざっと見た。何回か見ているので手抜き。
15世紀、16世紀ころの色彩豊かな宗教画が好きだ。そこはじっくり見る。

気分が妙に美術めいてしまって、ミュージアムショップでいらぬ本を買ってしまう。
西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編

美術出版社



どうも微妙にお買い物の神さまがご光臨のようです。
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CENOTAPH浅野信二展

2005-11-17 18:29:13 | art
写真がピンぼけだが、画家浅野信二の個展に行った。

「シュルレアリスムの画家」と以前書いたことがあるが、実際そういう定義でよいのかはよくわからない。
というより、実際足をはこんでみて、その作風がシュールレアルでありながらも意外なほど静物画的たたずまいをしていた。

実際にどこかにある風景や情景の絵というふうに感じられた。

写真は・・・おっとタイトル忘れた(^^;)
遠近法ではるか奥まで続く近代都市の廃墟と思しき情景のなかに、無防備に横たわる少女の絵。
廃墟のイメージは非常に現実的なものだ。たとえば戦禍の中の都市に見る破壊のイメージ。
そこにもってくる少女の姿だけは鮮明だ。
これはコラージュ感覚なのだろう。取り合わせは異質であってもどうしても超現実とはとらえることは出来なかった。

下の写真はメイン展示となっていた作品「シシィの浜辺」。
これはコラージュ感覚をフルに発揮したシュールレアリストらしい作風。
だが、これが彼のすべてではなかった。
今後も楽しみな同時代の画家だ。



↑クリックで拡大

ただ、「cenotaph(記念碑・屍が埋葬されていない墓)」というコンセプトについては、見ている間はすっかり頭からとんでしまった。
そこに思いをいたすにはもうちょっと全体の世界に浸る必要があったかもしれない。
浅野信二氏と無駄にヨタ話をしてたのは間違いだったかもしれないw
(お茶も淹れてもらっちゃった)

**

作品の大半にはすでに売却済みの赤札がついていた。
これらの作品が相応の場所へ散ってゆくのも寂しい気がした。

**

於:青木画廊(東京都中央区銀座 3-5-16 島田ビル2F・3F)
11/7(mon)~11/19(sat)

浅野信二WEBSITE/Asasinsane
AokiGallery

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杉本博司「時間の終わり」

2005-10-15 17:41:07 | art

MORI ART MUSEUM [杉本博司 時間の終わり]

展覧会はしごの3つ目は、写真家杉本博司の展覧会。
予想してた以上に面白かったので収穫。

この人の作品は基本的にコンセプチュアル・アートなんだ。
しかも写真という方法を用いることで、そのコンセプトがかえって生々しい手触りをもって迫ってくるという・・・

冒頭、あの「大ガラス」がガラスに挟まれている「木箱」という作品を見せられる。
その先、作品を見ていくと、途中で思い当たる。
ああ、これはデュシャンの精神なんだ。方法は全く違うけれども。

特に惹かれたのは「ジオラマ」というシリーズ。
剥製や模型の動物や原始人たちを、書き割りの背景の前に置いて撮影した作品群。
ここに立ち現れるこの正体不明の半端なリアリティはいったい何だろう??
ぶよぶよした虚実のかたまりを感じるようで実に面白い!

肖像写真」というシリーズも秀逸というか痛快というか・・・
絵画をもとにリアルに複製された歴史的人物の蝋人形。
これに、自然光のような優しい光を当てて、再び絵画のような肖像写真に仕立て上げる。ここにもあり得ないリアリティがむんむん匂い立つ

いや~面白い。

ほかにも、水平線と海と空以外写っていない、世界各地の海の写真や、
数学的な図形を撮影したもの、有名建築を無限大の倍の焦点距離で撮影したものなど、ふつうでは「ありえない」作品が並んでいる。

この人はアイディアを形にするのだけれど、その過程にとんでもない思考を幾重にも折り込むことが出来て、たとえばスタンスが何万年にも及ぶ時間軸であったり、生とはなにかという深みであったりする。

**

途中、展覧会カタログのサンプルがおいてあって、ぱらぱらめくってみる。
すると展示されているものはもちろん、それ以外の作品も収録したすぐれもの。
買って帰ろうと心に決め、出口で値段を見たら、腰が抜けそうになった。
ろ・ろくせんえん・・・・・
愕然とし、次の瞬間はらわたが煮えくりかえった私であったが、同時に財布にあったほぼ全財産の6千円を払っている自分もいたのである・・・とほほほ~

でもいまカタログを見直してみると、後悔しない自分がいる。いろいろな自分がいるもんだ。よかった。

**

ところで、海の写真、
son*imaのCDのジャケ写とよく似ています(笑)
何万年も変わらないモノを写そうというコンセプト、
これも同じです(笑)やったねww

それから、「ジオラマ」は、書き割りの前での謎の存在といい、ゼラチンシルバープリントの質感といい、先日みたやなぎみわの「寓話」と似たモノを感じたな。

**

というわけでなかなかよい展覧会でありました。
展覧会チケットで森ビルの展望室にも入れます。

そうかっそのせいもあって、こんな渋い展示でもいかにも通りすがりのお客さんがいっぱいいたんだ。なるほど~

なかには「こんな近くでよく撮れたわね~」なんて動物写真と勘違いされている方もいらっっしゃいましたが・・・まあ自分だって言われなければ本物だと思っただろうからね(笑)

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猫沢エミMY MOLESKINE EXHIBITION

2005-10-13 15:16:49 | art

都内各地で開催中の「MY MOLESKINE EXHIBITION 2005」に猫沢エミさんが出展しているので、見に行きました。
猫沢さんらしい血の滲むような中の脱力感みたいなページたちでした。

詳しくは後ほど更新予定。とりあえずスタバって一休み(-.-)

**(以下「後ほど」)**

モレスキンってなに?マイ・モレスキン展ってなに?
というのはこのページで↓
MOLESKINE

ゴッホも使ったという由緒あるモレスキンのノートに
各界のアーティストが各1冊まるごとペイントした作品が
都内のあちこちに展示されているのです。

で、猫沢エミさんはいまフランスで参加しているペイント集団「MAC」の一員として、このイベントに参加、出展しているのです。

で、猫沢エミファンの私は開催会場のうち、猫沢作品が展示されているTSUTAYA TOKYO ROPPONGI(だったかな?)に行ってまいりました。

作品はおのおのアクリルケースに入れられ、ケースには手を入れてページがめくれるだけの「穴」があいています。そして見る人は備え付けのゴム手袋をはめて、穴から手を突っ込んでそおっとめくって見るのです。

こ~んな手袋(ピンぼけだけど)


猫沢さんの作品は、説明するのは難しいけれど、どこか世界の終わりの風景のようなものを、グロテスクだけれど切り棄て難いぬくもりのあるドクロとか、おなじみのキノコ(=気乃子)とか馬鹿(馬+鹿)とかをモチーフに描きます。

全部で30ページくらいはあったでしょうか(もっとか?)

ところどころに東洋的な刻印なんかが押してあって、なかなか努力されていました。

なにはともあれ、ファンとしては、猫沢さんが相当の時間をかけていじくり回したその現物を(手袋越しとはいえ)触ることができるってのがウレシイですね^^;

**

でも冷静になって考えてみると、やっぱり猫沢さんには音楽活動をしてもらいたいな。
もちろんそっちのほうもいろいろと模索中のようですし、ビジュアルアートも音楽修行も文筆業も、本人が気の済むまでやりたいようにやってみないと次のステップはないのでしょうけれど。
一回りも二回りも深みをまして全面的に音楽活動に戻ってきてくれるのを待っておりまする。
(誰に話しかけているのでしょう私・・・??)

**

しかし実はこの日、モレスキンの前に2つの展覧会を巡っていた私・・・
すごおく疲れて久々の頭痛になってしまいました・・・^^;

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やなぎみわ「無垢な老女と無慈悲な少女の信じられない物語」

2005-09-30 11:10:34 | art

やなぎみわ「無垢な老女と無慈悲な少女の信じられない物語」展
2005.9.29 原美術館


久しぶりにいいモノを観た。
口に手を突っ込まれて中身を引きずり出されそうな作品たち。

グリム童話などに題材をとった「寓話」シリーズ。
老女の面をかぶった少女の繰り広げるモノクロームの異界。光と影の密室劇。
目が離せない。なんだろうこの親近感と拒絶感。グリムの寓話が現在の倒錯した異物として蘇る。

「無題」砂女のシリーズ。
なぜテントをかぶっているんだろう。そこから伸びる腕はカラカラに老いていたりする。砂は潮のにおいがするらしい。足下には砂と貝殻がころがっていたりする。書き割りのような背景。ボッシュの絵にでてきそうなキャラクター。

ビデオ作品もいい。
「砂少女」。風の音だけがむやみにするやかましい静寂のなか砂遊びをする少女の顔はよく見ると老いている。観ているこちらはテントの中にいて、そこから外を覗くような視点になっている。自分が砂女なのか?いつのまにか・・
砂女からみた少女の顔は老いているということなのだろうか・・・遠く走り去る少女を見やる私=砂女。

「砂女」。スペイン語バージョンを観たが、とてもしっくりしていた。老女が以前見たという砂女の話を少女に聞かせる。砂女を追ってさまよった話。砂女は求めても見つからないが、ときに遙か彼方を歩いているのを見かけたりする。力尽きて眠り込むある日、ふと気づくと砂女が側に座っている。祈りを捧げると砂女の中に取り込まれてしまう。深い穴に落ちるようだったと老婆は言う。気がつくと砂女の抜け殻と、海のにおいのする砂が周りにある。
その砂は老女の死後も少女に託すことはできないらしい。
砂は自分で手に入れるべきなにかなのか。
ガルシア=マルケスに捧ぐ、とある。

別れがたい作品たちだった。こんな作家がいるのは心強い。
常に魅力的なものは不可解でグロテスクでとらえがたく形がない。

**

展覧会タイトルはガルシア=マルケスの「エレンディラ」の原題「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」から着想したのだそう。

カタログ2800円高いけれど安い買い物。

秋晴れのなか友人と訪れた美術館は静かで心地よかった。
帰りは木漏れ日のなか丘を下って、大崎駅へ出て別れを惜しむ。
日差しは強かったけれど風はさわやかだった。

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ギュスターヴ・モロー展

2005-09-30 09:47:27 | art

ザ・ミュージアム:ギュスターヴ・モロー展

ギュスターヴ・モローといえば19世紀の象徴画家という認識でいたが、本人は「歴史画家」を任じていたとのこと、確かにその題材の選び方には一貫して歴史の物語へのまなざしがある。

それでもなお象徴主義的に受け取られるのは、むしろ「歴史画家」として収まりきれなかったモローの独創の部分によるところが大きいのだということが、今回の展示でわかった。

たとえば有名な「出現」という絵画。サロメと殉教者ヨハネのエピソードを、宙に浮く首により印象的に描いた作品。この着想は、他に類を見ないモローの独創と位置づけられるのだそうだ。この独創こそが同時代の注目をモローに集めたのだろう。

また「歴史画家」として見るとき、19世紀の特徴であるキリスト教信仰の衰退(というか相対化)を背景に、聖書世界を他の歴史神話と並列に、時に混合して題材として用いており、これも興味深い。

そして技法的には、代表的な油彩はまさに歴史画家のそれだが、デッサンや習作、水彩バージョンでは、20世紀の表現主義を思わせるタッチがあり、驚きであった。

他には、寓意に満ちた晩年の祭壇画「人類の生」(本体は運搬不可能なため、ほぼ同サイズの別バージョンの展示)や、「神秘の花」などが圧巻。

**

この画家、幼少より絵画を志し、両親の理解の元研鑽を積み、若くして名をなし、晩年には自宅を改装し自作を展示する美術館とした。
ほとんどの作品が散逸せず残っている。
苦労もあったに違いないが、画家としては恵まれた生涯だったのではないだろうか。

「サロメ」のエピソードは新訳聖書に登場するが、「サロメ」という名が初めて登場するのは、ユダヤの歴史家ヨセフスの「ユダヤ古代誌」なんだそうだ。
ヘブライ語で「平和」を意味するそうだ。

**

しかし、「リンダリンダリンダ」観た直後に観たので、記憶がぐちゃぐちゃである・・・

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シュヴァンクマイエル展!

2005-09-08 11:04:08 | art

神奈川県立近代美術館:開催中の展覧会>造形と映像の魔術師 シュヴァンクマイエル展 幻想の古都プラハから

しまった知らなかった。行かねば。
しかし葉山か~遠いな。1泊くらいしたいところだが先立つものがない。

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ベルギー象徴派展

2005-04-26 11:24:07 | art

JRの惨事は本当に大変なことです(T T)

**

そのさなか、ベルギー象徴派展に行ってきました。
そもそも絵画系はあまり知らないので、単なる感想文を書きます。

「19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパで産業化とともに人間疎外も進行する中で、そこから逃避するかのように幻想的な別世界を追い求めたのが象徴派の画家たちでした。」(展覧会カタログより)ということなので、作風も幻想的であったり寓意的であったり猥雑であったり、リアリズムや自然主義とは対極にあるものです。

しかしなんだかネガティヴな響きをもった定義ですね。「そこから逃避」って・・↑
ほぼ同時代のエドヴァルド・ムンクなんかは、疎外を直視した・・ということになるのでしょうか。

ベルギーにはその時期美術グループ「二十人会」が結成されたり、カトリック神秘主義グループとの交流もあったりで、運動の中心地となったようです。

**

というような背景はさて置いておいて(^^;)
中心的な画家フェルナン・クノップフについてのみ感想を・・・

クノップフの絵には、乳白色とでもいいたくなる独特の空気感があって、それは風景画でも人物画でも変わることはない。
今回実物を見て、図版とは比べ物にならないくらいその空気感を感じた。
特にブリュージュの風景画では、鉛筆・パステルのみでその質感が表現されていて驚嘆する。

風景画について言えば、神秘主義的な表現とは感じない。廃都を題材とした風景の神秘をむしろ自然主義的に描写しているとさえ感じる。
一方人物画となると、一気に象徴主義的、悪く言うとまんがちっくになってくるから不思議だ(笑)
(まんがちっくなのはクノップフに罪はなく、むしろ象徴派等の耽美的作風の継承者が、現代の一部のマンガにあるということによるのじゃないだろうか?)

人物は一様に無表情で、唇が薄く、あごが長い。平板な印象すら覚える。
風景画で見せた驚異のデッサン力は、人物になると発揮されないのだろうか・・・
(モデルは一貫してフェルナンの妹さんらしいですね・・・)

と思っていたら、1点だけ展示されていた彫像「メデューサの首」、
このメデューサの表情の豊かなこと!
目前に彼女がいて、声が今にも聞こえそうな躍動感を持っている。
絵画とのこの違い、どういうこと?
彫像は全体にバランスもよいし、欲しくなってしまった。
クノップフの立体作品は初めて見たので、興味深いところ。


**

さて、グレッグ・イーガンファンよ集え!と思ったら、肝心の「愛撫」はなかった(^^;)
「「愛撫」のための習作」はあったけど・・・
ほかにも、ジャン・デルヴィルの「悪魔の宝物」がないなど、ちょっと目玉を欠いた感は否めない!

とはいえ、デルヴィルの秀作や、普段目にすることのできない作家の絵を見ることができるのはうれしい。
ジャワ島生まれのヤン・トーロップのインドネシアテイストの作品や、ジェームズ・アンソールのチープでエネルギッシュな作品などは、普通はお目にかかれない。

と、いきなりおしまい(^^)/

↓デルヴィル「死せるオルフェウス」

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