イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

フリーランス翻訳者殺人事件 1

2009年01月27日 23時04分12秒 | 連載企画
チャイムが鳴った。夕方の6時を少し回ったところだ。仕事をしていたわたしは、キーを打つ手を止め、玄関に向かった。チャイムが鳴ったら、とりあえずハンコをもって玄関にいき、相手が誰かを確かめずにドアを開けることにしている。たいていの場合、それは宅配便だ。何かを売り込みに来る怪しげな人の場合もあるから、ちょっとした不安もある。だけど、毎回インターフォンで「どちら様ですか?」とやるのは面倒くさい。毎日のようにアマゾンから荷物が届くこともあるから、配達する業者のお兄さんやおじさんも、わたしの部屋の前に立ち、番号を見るたびに「またコイツのとこかよ」と思っているに違いない。そんな彼らに対して毎回「どちら様ですか?」なんて高飛車な態度はとれない。そもそもこっちだって怪しい人なのだ。平日の昼間にずっと家にいて、連日のように何かをネットで注文している。「あんた、何者ですか?」と思われているのはこっちの方だろう。「一棟の●●●号のあの男は怪しい」と、宅配仲間で噂になっているかもしれない。ひょっとしたら、警察にも話がいっているかもしれない。そんなちょっとした被害妄想をしてしまうのだ。

だから、チャイムが鳴ったらハンコを持ってとにかく扉を開ける。それがわたしのささやかな流儀だ。チャイムが鳴る。わたしはそれまでしていたことを中断し、ハンコを持って玄関に行く。そして笑顔で扉を開ける。それがフリーランス翻訳者としてわたしが自らに課している、ごくわずかなルールのひとつなのだ。

わたしは扉を開ける。「わたしはけっして怪しいものじゃございやせん」ビームを発しながら、ニコニコと。荷物を受け取り、丁寧にお礼をいうと、配達の人も安心するのだろう。こちらをまともな人間だと思ってくれているような反応が見られる。それがうれしい。めったに人と接する機会がないのだから、せめてこういうときくらい、気持ちよく人と接したい。そもそも、わたしは決して愛想がよくないわけではない。むしろ、過去の数十年を振り返れば、かなり爽やかに人と接してきた方ではないかと思っている。レストランにいっても、コンビニにいっても、店員に横柄な態度をとったことはない。頑なに敬語を貫き、感謝の一言はできるだけ忘れないようにしている。だが、そんなわたしですら、こうやってほとんど人と話す機会をもたないアナグマのような生活をしていると、不安になってくる。だんだん性格まで暗くなってきて、無表情、無反応な奴になってしまうのではないか。そんな恐れを感じるのだ。ほんの数秒のこととはいえ、宅急便のおっさんと笑顔でかわす一言は、わたしにとって日常世界との接触の貴重な機会でもある。シェフがフライパンから高々と上げる調理用の炎のように、たとえ瞬間であったとしても、「社会」を自己のなかに立ちあがらせなくてはならない。強く、高く。

だからわたしにとって、扉を開けることはある意味楽しみでもある。そこは社会に通じるドアでもある。監獄にいて、面会者がきてくれたようなうれしさもある。だけど、安全なことばかりではない。もしかしたらそこには殺人鬼がいて、扉が開いた瞬間に刺殺されるかもしれないのだ。そんな可能性は万に一つもないだろうが、よしんば殺人鬼がそこにいたとしても、簡単には刺されて死ぬことはないだろうというちょっとした自負もある。相手は腹部を狙ってくるだろう。鋭利な刃で、内臓をえぐるような一撃を矢のように打ってくるだろう。だが、わたしには恐らくその一撃はとどくまい。わたしにはボクシングで鍛えた華麗なフットワークがある。檻のなかを逃げ回る鶏のように瞬時にわたしは方向を変え、奴のナイフをさけることだろう。そして隙あれば反撃を狙うだろう。扉で奴の右手を挟んでやる。あまりの痛みに奴がナイフを落としたら、表にでて、強烈な右ストレートをお見舞いしてやる。死のダンスを踊るのは、奴の方だ。奴が倒れたら、ゲームに勝ったも同然だ。なぜなら、わたしには実に多彩な関節技という武器があるからだ。チョークスリーパー、アームバー、アキレス腱固め、ヒールホールド。技の百科事典を奴に売り込んでやるのだ。

ともかく、わたしは扉をあける。そして、ほとんどの場合、それは宅配便である。目の前にいるのが営業の人だったら、「すみませんが、結構です」といって扉を閉める。それだけの話だ。若くて世間知らずだった頃は、思わず最初の一言を聞いてしまい、話を終えるタイミングをつかめないまま、長々と話を聞かされてしまうこともあった。だけど、今ではそんなことはしない。わたしはもう大人になったのだ。だから、相手がしゃべりだし、それが何かの売込み――新聞とか、宗教とか、今じゃあんまりないのだろうけど百科事典とか――だとわかった瞬間、早押しクイズの回答者がボタンを押すみたいに「結構です」という答えを口から吐いて、扉を閉める。相手もそんなわたしの気配を感じるからなのか、決して後追いはしてこない。

――何の荷物だろう? 最近はアマゾンでも注文をしていないし、親が何かを送ってくれたのだろうか? そう思いながら、わたしは瀬古利彦のように上下動のまったくない安定した走りで軽快に玄関へと向かい、スピードを落とさないようにして玄関の手前の台にあるシャチハタのハンコを掴んだ。先頭を走る瀬古が、給水所で自らのスペシャルウォーターに狙いを定めるように。

扉を開けた。いつもの宅配便のおっさんではなかった。見知らぬ男が、そこに立っていた。そしてわたしは、なぜか扉をしめることができなかった(続く)。

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2 コメント

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Unknown (sayuri)
2009-01-27 23:38:34
こんにちは!
はじめてコメントします。
あんまり気になったのでつい!
ここで終わるなんて、つづきがほんとに気になる~。
更新楽しみに待ってます。
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Unknown (iwashi)
2009-01-27 23:44:26
さゆりさま

コメントありがとうございます!
続きはどうなるか自分でもまったくわかりません(^^) ともかく明日また書いてみます!
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