実家で埋もれている古い写真のうち、「鉄」に関係するものは発見しだい引き揚げてストックしているのですが、だいぶ前にサルベージしてそのままになっていた写真の情報を解読してみたところ、実に興味深いことがわかってきました。
「走れ!ポッポ博」というイベントを撮った写真。場所は遊園地の入口のようで、てっきり川崎市にあった「向ヶ丘遊園」(現在閉園)だとばかり思っていたのですが、横浜市の「こどもの国」で1971年(昭和46年)8月から11月にかけて開催されたものでした。どうりで“向ヶ丘遊園”で検索しても出てこないわけで、某オークションサイトに出品されていた記念ネクタイピンの情報から判明しました。汽車の形のモニュメントが置いてあるのは、同園のエントランスと中央広場の間に架かる歩道橋です。これに早く気付くべきでした。
1970年前後は国鉄の無煙化まっただ中で各地でさよなら運転が行われていました。このイベントもこうした世の中の情勢に合わせたものだったのでしょう。ポッポ博全体の内容は定かではありませんが、恐らく1番人気であったであろうミニSLも運転され、その様子が以下にご紹介する写真です。
始発駅(にしては寂しい・・・中間駅か?)と思われる場所で発車準備中の列車。5インチゲージのようで、D51が5両の客車をけん引しています。後方には「ターンテーブル」と書かれた看板も見えます。線路はバラストを正確に敷き詰めた本格的なつくりに見え、カマを整備するスタッフのうち2人も正統派機関士のいでたちです。
駅を出る列車。どうやら制服の2人は本物の機関士と機関助士のようです。オリンパスペンEEで撮った荒い画質ですが機関車のナンバーは「D51 232」と読めます。調べてみるとこれは実機同様に国鉄土崎工場(秋田)が製作したミニSLでした。秋田駅の連絡通路に提示されているD51 554はじめ同種のカマが数両あるのではないかとのことです。当時はまだ工場の一般公開などそう多くはなかったと思うので、なぜ国鉄の現場がこうしたミニSLを造っていたのか不思議ですが、実車が淘汰されていく中で少しでも技術伝承を図るべく製作されたのかも知れません。果してこのポッポ博は、国鉄土崎工場が人も機関車も出した「出前運転」だったのでしょうか?ちなみに客車はブルトレ塗装と思われ、JNRマークが誇らしげに輝いています。
こちらが秋田駅構内に飾られているD51 554号機の近影。ブルトレ形客車は茶色のオハフ33に代替わり??していました。(2018年7月撮影)
線路は駅を起点とする「P」の字型に敷かれていたようです。駅を出た列車はポイントを右に進み、左回りで周回コースに入ります。周囲の景色は寒々としています。人々の服装から判断すると撮影したのは会期も終盤の10月下旬から11月ではないかと想像できますが、「こどもの国」自体がまだ開園から6年しか経っていない頃なので木々がまだ成長していなかったのでしょう。
列車が帰ってきました。「P」の字の内側に機関庫が設けられています。右手に少しだけ映っている建物の特徴(別のカットで大きな三角屋根の建物=皇太子記念館と判明)から、線路が敷かれていたのは中央広場の奥から左手方向にかけてだったと思われます。
ターンテーブルもありました。主桁のプレートに「国鉄土崎工場」と書かれているのがわかります。なんとターンテーブルまで自前で作って持ち込んでいたとは国鉄おそろしや・・・。2人のスタッフ(こどもの国の人か?)が回転させ、機関士と助士は乗務したまま。ミニSLとはいえ職務分担はっきりしてますね。
さて、最後の1枚ですが、上と同じ線路なのかどうかわかりませんが全くおもむきの異なる列車をカメラは写しています。おじいちゃんの運転する列車はまったく国鉄色がありません。機関車のプレートが判読できませんが、テンダーに大きく「YOSHIOKA」と書かれています。この方の持ち物なのでしょうか?この方が「YOSHIOKA」さんなのでしょうか?
これも調べがつきました。名古屋にある吉岡電気工業という会社の創業者にして先代社長、吉岡正直氏(故人)の製作した機関車であり、運転する「おじいちゃん」こそが恐らく吉岡氏ご本人ではないかと思われます。同社のホームページの「沿革」にミニSLを前にした同氏の写真があります。背後には「M.YOSHIOKA」とペイントされた、恐らく上の写真と同じものと思われる機関車が写っています。
(吉岡電気工業株式会社HPより)
同氏は1969年に黄綬褒章を授与されています。同社のスマートフォンサイトの「黄綬褒章」の解説には、「吉岡電気工業の創業者であった吉岡正直。 日本で初めて電気工事会社を創り、さらに夢あふれたミニSLの製造にも持てる 情熱のすべてを注ぎ込んだ男。それが高じて日本で一番古いSLマニアになった男。」と書かれています。1969年といえば上の写真が撮られる2年前。写真の客車には幼き日の私が乗っているのですが、実はすごい経歴を持った方の運転する列車に乗ったのだと、半世紀近く時を経て判明した次第。
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「走れ!ポッポ博」というイベントを撮った写真。場所は遊園地の入口のようで、てっきり川崎市にあった「向ヶ丘遊園」(現在閉園)だとばかり思っていたのですが、横浜市の「こどもの国」で1971年(昭和46年)8月から11月にかけて開催されたものでした。どうりで“向ヶ丘遊園”で検索しても出てこないわけで、某オークションサイトに出品されていた記念ネクタイピンの情報から判明しました。汽車の形のモニュメントが置いてあるのは、同園のエントランスと中央広場の間に架かる歩道橋です。これに早く気付くべきでした。
1970年前後は国鉄の無煙化まっただ中で各地でさよなら運転が行われていました。このイベントもこうした世の中の情勢に合わせたものだったのでしょう。ポッポ博全体の内容は定かではありませんが、恐らく1番人気であったであろうミニSLも運転され、その様子が以下にご紹介する写真です。
始発駅(にしては寂しい・・・中間駅か?)と思われる場所で発車準備中の列車。5インチゲージのようで、D51が5両の客車をけん引しています。後方には「ターンテーブル」と書かれた看板も見えます。線路はバラストを正確に敷き詰めた本格的なつくりに見え、カマを整備するスタッフのうち2人も正統派機関士のいでたちです。
駅を出る列車。どうやら制服の2人は本物の機関士と機関助士のようです。オリンパスペンEEで撮った荒い画質ですが機関車のナンバーは「D51 232」と読めます。調べてみるとこれは実機同様に国鉄土崎工場(秋田)が製作したミニSLでした。秋田駅の連絡通路に提示されているD51 554はじめ同種のカマが数両あるのではないかとのことです。当時はまだ工場の一般公開などそう多くはなかったと思うので、なぜ国鉄の現場がこうしたミニSLを造っていたのか不思議ですが、実車が淘汰されていく中で少しでも技術伝承を図るべく製作されたのかも知れません。果してこのポッポ博は、国鉄土崎工場が人も機関車も出した「出前運転」だったのでしょうか?ちなみに客車はブルトレ塗装と思われ、JNRマークが誇らしげに輝いています。
こちらが秋田駅構内に飾られているD51 554号機の近影。ブルトレ形客車は茶色のオハフ33に代替わり??していました。(2018年7月撮影)
線路は駅を起点とする「P」の字型に敷かれていたようです。駅を出た列車はポイントを右に進み、左回りで周回コースに入ります。周囲の景色は寒々としています。人々の服装から判断すると撮影したのは会期も終盤の10月下旬から11月ではないかと想像できますが、「こどもの国」自体がまだ開園から6年しか経っていない頃なので木々がまだ成長していなかったのでしょう。
列車が帰ってきました。「P」の字の内側に機関庫が設けられています。右手に少しだけ映っている建物の特徴(別のカットで大きな三角屋根の建物=皇太子記念館と判明)から、線路が敷かれていたのは中央広場の奥から左手方向にかけてだったと思われます。
ターンテーブルもありました。主桁のプレートに「国鉄土崎工場」と書かれているのがわかります。なんとターンテーブルまで自前で作って持ち込んでいたとは国鉄おそろしや・・・。2人のスタッフ(こどもの国の人か?)が回転させ、機関士と助士は乗務したまま。ミニSLとはいえ職務分担はっきりしてますね。
さて、最後の1枚ですが、上と同じ線路なのかどうかわかりませんが全くおもむきの異なる列車をカメラは写しています。おじいちゃんの運転する列車はまったく国鉄色がありません。機関車のプレートが判読できませんが、テンダーに大きく「YOSHIOKA」と書かれています。この方の持ち物なのでしょうか?この方が「YOSHIOKA」さんなのでしょうか?
これも調べがつきました。名古屋にある吉岡電気工業という会社の創業者にして先代社長、吉岡正直氏(故人)の製作した機関車であり、運転する「おじいちゃん」こそが恐らく吉岡氏ご本人ではないかと思われます。同社のホームページの「沿革」にミニSLを前にした同氏の写真があります。背後には「M.YOSHIOKA」とペイントされた、恐らく上の写真と同じものと思われる機関車が写っています。
(吉岡電気工業株式会社HPより)
同氏は1969年に黄綬褒章を授与されています。同社のスマートフォンサイトの「黄綬褒章」の解説には、「吉岡電気工業の創業者であった吉岡正直。 日本で初めて電気工事会社を創り、さらに夢あふれたミニSLの製造にも持てる 情熱のすべてを注ぎ込んだ男。それが高じて日本で一番古いSLマニアになった男。」と書かれています。1969年といえば上の写真が撮られる2年前。写真の客車には幼き日の私が乗っているのですが、実はすごい経歴を持った方の運転する列車に乗ったのだと、半世紀近く時を経て判明した次第。
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大変有名な方だったのですね、良くカーブで脱線したり、連結が外れて置いてきぼりの客車が人車鉄道の様に人に押されて戻ってきたり、面白かったです。
汽車は複数台居て多客時は交代で走っていた記憶が、あの手の汽車にしては長距離だったのでしょう、着くと急いでブロアーをつないで棒で燃え残りを書き出し給水ポンプで水を足す、寄ってたかって忙しい感じでした。
ループ線の向こう正面にリニアモーターカーがありました、浮く物ではなく今の大江戸線の仕組みと思いますが、当時は普通の電車との違いは分かりませんでした、線路にコイルが必要だったのでしょう、全線鉄橋の様な軌道でした。
その手前にEF15の様な茶色の機関車がありましたが、動いているのは見ませんでした。
日曜混むので毎土曜日、学校帰ったら自転車で通いました。
こどもの国自動車の免許も持っていたので、SL乗って自動車乗って、いい時代でした。
土崎のミニD51まだ居たのが分かってうれしいです。
SLブームの頃のこどもの国のSL、何となく検索をしていてぶち当たりました。ほとんど写真が出てきませんでしたが、ある物ですね。
ミニSLと言えないほどの大きいもので、国鉄工場から借りてきたという事は何かで知っていました。運転士も本物だったとは知りませんでした。線路もナローケージの鉄道の様に本物チックで、バラスの状況からおそらく敷設や保線も国鉄がやったのでしょうね。
折り返し地点にでは、客車の腰かけている板が前後にスライドする様になっており、一回立ち上がり各自でスライドさせて、板を跨いで向きを変えて座り直すという事をやっていました。汽車が手動転車台で回っている間にお客も前後を入れ替えていました。
踏切番もいて、おもりを付けて軽く動くようにされた踏切の竿の元がトラ色ロープで結ばれており、ロープは竿から直下の滑車に下り地面を這い、踏切番の所で滑車で再び上に上がり鉄の杭のストッパーに引っかけるようになっていました。
ロープを引っ張ると竿が上がり、手を離すと自重で下がるというシステムでした。踏切番の居ない側の竿は線路をくぐる塩ビ管の中をロープが通り竿を結び、こちら側の人だけで向こう側の竿を一緒に上げ下げし居てました。
電池で動く目覚まし時計の音のベルもあり、踏切番が操作していました。一日中汽車が見られるのでやらせてくれないかと思ったものです。工場で立ち入れ制限を掛けるときのノウハウが生かされていたのかもしれません。
足繫く通っておられたとのことで、さすがに色々なことをよく覚えていらっしゃいますね。踏切の構造とか客車の座席とか。そういえばリニアモーターカーも確かにありました。SLよりむしろそちらに興味があったように記憶しています。
機関士も含めて展示一式が国鉄の出前であったかはもはや確認のしようがありませんが、「本物」が子供たちの想像力、創造力をたくましくさせていた良い時代でした。
>こどもの国自動車の免許
これは存じ上げなかったので調べてみたところ、これも「本物」をミニサイズにした自動車が運転できたんですね!近かったら私も通い詰めていたかも知れません。笑
色々興味深い情報をお伝えいただきありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
土崎のSLを使ったCMがあったのを思い出しました。石井のチキンハンバーグのヘッドマーク付けて走っているだけなのですが。
リニアモーターカーは子供達には不人気でSLの様な待ちはありませんでした。
こどもの国自動車はダットサンベビーというちゃんとした名前もありました。
EXPO'70 で使った中古の園内用のダイハツ電気自動車も一緒に走り、免許を持っていない人も乗りる様になりました。
これが坂道に弱く続くガソリン車は大渋滞でした。
YouTubeを探したのですが残念ながら見つかりませんでした。イシイのハンバーグとかミートボールとか、懐かしいですね。
>坂道に弱く続くガソリン車は大渋滞でした
当時の技術ではそんな感じでしょう。渋滞している姿が目に浮かぶようです。
貴重なお話ありがとうございました。