■ 国指定史跡 松代城跡
史跡松代城跡 附新御殿跡
松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との川中島合戦の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城が始まりと言われており、
永禄3年頃(1560)普請が完了したものと、伝えられています。慶長5年関ケ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸
三の丸を整備し土塁を石垣に築きなおしたものと考れる。元和8年(1622)真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城ま
での約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。松代城は、北西をながれる千曲川を自然の要害として造られた平城で、
最北部に本丸南側の城下に向けて二の丸、三の丸・花の丸等の曲輪を構えていました。明治5年の廃城以降、建物は無くなったものの
昭和56年に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿と共に国史跡に指定されています。
長野市教育委員会 (城跡内に設置された案内板より)
真田氏が居城としたことのある上田城を攻め、更に、上田城に移る前の真田氏居館跡も訪ねた。そうなると真田氏が上田城よりも長い間居城とした
『松代城(海津城)』跡(国指定史跡 日本100名城)も攻めないわけには行かないだろうなと考えていました。そこで思いついたように
去る5月22日(土)に、急遽、長野県長野市(旧松代町)まで攻城に向かいました。
太鼓門と太鼓門前橋
太鼓門
太鼓門の枡形
北不明門(きたあかずもん)
北不明門の高麗門
北不明門の櫓門
北不明門を北方から
本丸跡
本丸内にある城跡碑
この太鼓門と太鼓門前橋は、2004年に残っていた絵図を元に、当時の門礎石を利用して忠実に復元されたもの。
本丸跡内にある城址碑は「海津城址之碑」となっています。海津城から松代城と改名されたのは3代真田幸道のときで、幕命によるそうです。
いまでも松代城という呼び名より海津城の方が良いという方が多いようです。
松代城天守台石垣
天守台から北不明門を
北不明門前橋
水堀と太鼓門前橋
二の丸南門
石場門
二の丸
水堀
埋門
またひとつ素晴らしい城を攻めることが出来ました。
城跡の近くには色々と松代城に関連する建物があり、本来はここに続けて書けばよいのでしょうが、機会を見て別ページにしたいと思います。
散策日:2010年(平成22年)5月22日(土)
史跡松代城跡 附新御殿跡
松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との川中島合戦の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城が始まりと言われており、
永禄3年頃(1560)普請が完了したものと、伝えられています。慶長5年関ケ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸
三の丸を整備し土塁を石垣に築きなおしたものと考れる。元和8年(1622)真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城ま
での約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。松代城は、北西をながれる千曲川を自然の要害として造られた平城で、
最北部に本丸南側の城下に向けて二の丸、三の丸・花の丸等の曲輪を構えていました。明治5年の廃城以降、建物は無くなったものの
昭和56年に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿と共に国史跡に指定されています。
長野市教育委員会 (城跡内に設置された案内板より)
真田氏が居城としたことのある上田城を攻め、更に、上田城に移る前の真田氏居館跡も訪ねた。そうなると真田氏が上田城よりも長い間居城とした
『松代城(海津城)』跡(国指定史跡 日本100名城)も攻めないわけには行かないだろうなと考えていました。そこで思いついたように
去る5月22日(土)に、急遽、長野県長野市(旧松代町)まで攻城に向かいました。
太鼓門と太鼓門前橋
太鼓門
太鼓門の枡形
北不明門(きたあかずもん)
北不明門の高麗門
北不明門の櫓門
北不明門を北方から
本丸跡
本丸内にある城跡碑
この太鼓門と太鼓門前橋は、2004年に残っていた絵図を元に、当時の門礎石を利用して忠実に復元されたもの。
本丸跡内にある城址碑は「海津城址之碑」となっています。海津城から松代城と改名されたのは3代真田幸道のときで、幕命によるそうです。
いまでも松代城という呼び名より海津城の方が良いという方が多いようです。
松代城天守台石垣
天守台から北不明門を
北不明門前橋
水堀と太鼓門前橋
二の丸南門
石場門
二の丸
水堀
埋門
またひとつ素晴らしい城を攻めることが出来ました。
城跡の近くには色々と松代城に関連する建物があり、本来はここに続けて書けばよいのでしょうが、機会を見て別ページにしたいと思います。
散策日:2010年(平成22年)5月22日(土)