昨日兄の葬儀、七・七日の法要が川越のお寺でおこなわれました。家族葬でという本人の希望もあり、遠くは盛岡、仙台、金沢からの兄夫妻の身内と親戚、そして親しかった学友4人が参列してお別れをしました。
お別れの会では、兄が過ごした68年の思い出の写真が、姪が奏でるヴァイオリンをバックに流れました。冒頭に私達家族の写真、そして次に私と兄の6・7歳ごろの幼い仲良しのツーショットの写真が映し出されました。私と兄は戦後の何もない時代に生まれたので、幼い頃の写真も少なく唯一の思い出の写真でした。
中学生、高校生、大学生のクラブ活動と勉学にいそしむ姿、社会人になって学園祭・体育祭で学生と交わる姿、結婚後の築き上げた家族との日常の姿、しばしば訪れた海外の思い出の写真、良く手入れした薔薇が咲きほこる庭、所どころに私たちの両親の姿もあって懐かしく見ながら、このような席で見るのは実に残念だと思いました。
姪は幼い頃からヴァイオリンに親しみ、今も現役で活動しています。夏休み川越の家に来る時もいつもヴァイオリン持参でしたね。
今日は父のために演奏します・・・と美しい音色を聴かせてくれました。クラシックが好きだった兄に届いたでしょうか。
学友4人が私達の知らないエピソードを話してくださいました。
より速くより合理性が求められた高度成長の時代、橋梁学を専攻した兄が地方(八戸・今でこそ2時間半で行けますが)に就職する友は稀だったが、兄の処へ遊びに行った時、豊かな人生を送っている・・・本当の豊かさを先行した姿だと実感したと話されたのが印象的でした。
中学校では軟式テニスで県大会で優勝し表彰されたのは知っていました。高校では硬式テニスでインターハイに出たとか?これは知りませんでした。夏休みは同志社の高校とお互いに行ったり来たりとテニス一辺倒でしたし、いつも真っ黒でした。大学ではテニスサークルで初めて理工の学生がキャプテンになって頑張って任を果たしたという事、穏やかで大きな声を出すこともなかったと話されました。
私の兄弟姉妹はお互いに程々の距離を持って暮らしていましたが、もう少し頻繁に八戸にも行っていれば良かった、もっと案内して欲しかったと思うばかりです。未だに信じられませんが、兄の分、生きなければ・・・と思います。
お別れの会では、兄が過ごした68年の思い出の写真が、姪が奏でるヴァイオリンをバックに流れました。冒頭に私達家族の写真、そして次に私と兄の6・7歳ごろの幼い仲良しのツーショットの写真が映し出されました。私と兄は戦後の何もない時代に生まれたので、幼い頃の写真も少なく唯一の思い出の写真でした。
中学生、高校生、大学生のクラブ活動と勉学にいそしむ姿、社会人になって学園祭・体育祭で学生と交わる姿、結婚後の築き上げた家族との日常の姿、しばしば訪れた海外の思い出の写真、良く手入れした薔薇が咲きほこる庭、所どころに私たちの両親の姿もあって懐かしく見ながら、このような席で見るのは実に残念だと思いました。
姪は幼い頃からヴァイオリンに親しみ、今も現役で活動しています。夏休み川越の家に来る時もいつもヴァイオリン持参でしたね。
今日は父のために演奏します・・・と美しい音色を聴かせてくれました。クラシックが好きだった兄に届いたでしょうか。
学友4人が私達の知らないエピソードを話してくださいました。
より速くより合理性が求められた高度成長の時代、橋梁学を専攻した兄が地方(八戸・今でこそ2時間半で行けますが)に就職する友は稀だったが、兄の処へ遊びに行った時、豊かな人生を送っている・・・本当の豊かさを先行した姿だと実感したと話されたのが印象的でした。
中学校では軟式テニスで県大会で優勝し表彰されたのは知っていました。高校では硬式テニスでインターハイに出たとか?これは知りませんでした。夏休みは同志社の高校とお互いに行ったり来たりとテニス一辺倒でしたし、いつも真っ黒でした。大学ではテニスサークルで初めて理工の学生がキャプテンになって頑張って任を果たしたという事、穏やかで大きな声を出すこともなかったと話されました。
私の兄弟姉妹はお互いに程々の距離を持って暮らしていましたが、もう少し頻繁に八戸にも行っていれば良かった、もっと案内して欲しかったと思うばかりです。未だに信じられませんが、兄の分、生きなければ・・・と思います。
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