映画「The Main Battleground of the Comfort Women Issue」(邦題「主戦場」)を観た。
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とにかく言葉、言葉、言葉。言葉が洪水のように押し寄せてくる作品である。立場で物を言う人、ハッタリをかます人、自己弁護に終始する人、事実を検証しようとする人、寄せ集めの情報で人を騙そうとする人など、様々である。この映画を理解するには映画と同じレベルで考えるのではなく、一段高いところから、世界と人類を考えなければならない。
ある種の教条を絶対として信じる人は、他人がそれを否定するのが我慢ならない。たとえば「親に向かってその口の利き方はなんだ!」と怒る人は、子供は親を敬い従わなければならないと思いこんでいる。「誰に向かって口を利いている」とか「俺を誰だと思っている」などと怒鳴る人も同じである。なべて封建主義的である。
スポーツの指導者にもそういうタイプが多い。スポーツの動機は大雑把に二つに分けられる。世界を目指す人と、楽しみや健康のためにやる人だ。前者にとっては熱血指導はありがたいだろうが、後者には迷惑極まりない。
人が熱血指導者になってしまうのは、一元論的な考え方に陥るからである。目的は金メダルだと勝手に決めてしまう。それ以外の行為はすべて無駄な行為だと切り捨てる。自分がこの分野である程度成功したから同じやり方をすべきだと強制する。個々の事情や個性など一顧だにしない。もはやファシズムである。
実はスポーツのそういった精神性は政治的な全体主義の精神性とまったく同じなのである。チーム一丸となって敵を倒す。多様性は認められず、個性は長所ではなく和を乱すとして排除される。熱血指導者の横暴もみんなが受け入れてしまえば暴力さえも許される。どうしてそうなるかと言えば、従うほうが楽だからである。
反対の声を上げて組織や共同体を非難し批判するのは美しくない行為だとされ、協調性がない、身勝手だと悪い評価を受ける。承認欲求は他者からの高評価を期待すると同時に低評価を避けたいものだから、人はパラダイムに従ってしまう傾向がある。村八分にされたくないから仲間についていく。サッカーファンでもないのに渋谷に集まって馬鹿騒ぎしている若者たちの中にも、やむを得ず参加し、やむを得ず楽しそうにしている人がいると思う。大抵の場合は中心になるのは知能レベルが低い暴力的な人物で、仲間にも馬鹿騒ぎを強制し、場合によってはノリが悪いと言って殴ったり仲間はずれにする。知能が高いほど弱気になるので、利口が馬鹿に従う図式になる。
そして軍隊という組織は、渋谷で馬鹿騒ぎする若者たちと同じような精神性の組織なのである。大戦時の日本では、日本中が同じような状態になった。例によって知能が低くて気が強いだけの暴力的な人物が日本を牽引し、ノリが悪い人間は非国民とされて迫害され、時には官憲に引っ張られて拷問を受け処刑された。戦時下のパラダイムは実に恐ろしい。それに反抗できなかったからといって責めるのは可哀想ではあるが、それでも日本人は軍部に反抗しなければならかなったと思う。
国家とは吉本隆明が言うように人々の共同幻想である。領土、領海、領空、国旗、国歌、そして国民などが国家とされる。民族は客観的な区別の対象だが、国民は他の国家との相関関係と手続きによって決められる。白人でも黒人でも日本国民はいるだろう。
我々が中国と言うときに、何を以て中国と呼ぶのかは実に様々である。しかし「中国人は」と言うときの中国人は話者独自のイメージの中国人であって、中国人全体を指すのではない。
「日本人は日本語を話す」は誰が聞いてもその通りだと思うが、「日本人は金の亡者だ」という言葉は正確ではない。たしかに金の亡者みたいな日本人もいるかも知れないが、日本人すべてが金の亡者ではない。
そんなことは解っていると思うかもしれないが、主語を変えて「中国人は金の亡者だ」と平気で言う人がいたとして、聞いた誰もが正しい反論ができるだろうか。中にはその通りだと思う人がいるかもしれない。そこに共同体に精神的に依存することの恐ろしさがある。
慰安婦も南京大虐殺も覆しようのない歴史の事実だ。アメリカ大統領がヒロシマ、ナガサキはなかったと言ったら日本の世論は確実に沸騰するだろう。戦争を仕掛けた日本ですらそうなのだ。勝手な侵略を受けた朝鮮が、慰安婦などなかったという日本の総理大臣の言葉に激怒するのは当然である。
韓国人が日本は謝罪しろというとき、謝罪する主体は誰なのだろうか。韓国国会の議長は天皇が謝罪すればいいと言って物議を醸した。平成天皇は昭和天皇の遺した負の遺産のために日本軍が被害を齎した地域を謝罪して回ったくらいだから、明仁上皇本人は韓国に行って謝罪することも辞さなかっただろう。今上天皇も同じ路線だから、謝罪するのは吝かではないはずだ。そうさせない勢力は慰安婦がなかったと主張している勢力にほぼ等しい。
ただ日本にいる朝鮮人や韓国人から直接、お前は謝罪しろと言われても困る。個人としては第二次大戦に加担してもいないし、そもそもそんな昔にこの世にいなかった。さらに言えば、日本という共同体にたまたま生を受けただけで、共同体の責任を個人が背負わなければならない義務はない。また、戦後生まれの朝鮮人や韓国人は、たまたまその共同体に生まれただけだから、共同体が過去に被った被害について日本に謝罪を要求することもできない。そのあたりの簡単な理屈が共同体に精神的に依存している人間にはどうしても理解できないのだ。そして共同体に精神的に依存している人間は、人類の多くの割合を占めると思われる。
我々はどれだけ共同体から自由になれるのか、パラダイムにとらわれることなく、孤立を恐れず孤独に耐えられるか、そしてその上で、どれだけ他人に対して寛容になれるのか。この地球上に生きるひとりの人間として、世界観と覚悟を試される作品であった。