三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Svetlonoc」(邦題「ナイトサイレン/呪縛」)

2024年08月03日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「Svetlonoc」(邦題「ナイトサイレン/呪縛」)を観た。
映画『ナイトサイレン 呪縛』公式サイト

映画『ナイトサイレン 呪縛』公式サイト

映画『ナイトサイレン/呪縛』公式サイト。その村で、女は魔女となる――現代の《魔女狩り》フォークホラー解禁。8月2日(金)ヒューマントラストシネマ渋谷、池袋シネマ・ロサ...

映画『ナイトサイレン 呪縛』公式サイト

 2日前に観たばかりのキティ・グリーン監督の映画「ロイヤルホテル」に似て、歪んだ社会での女性の受難が描かれている。
 
「石女」という言葉をご存知だろうか。読み方は「うまずめ」で、子供を産めない女性を意味する。結婚しても子供ができない場合に、そう呼ばれて差別されることがある。一般的には死語になっているか、少なくとも放送禁止用語になっていると思われる。
 何故そんな言葉を紹介したかというと、それが家父長制や封建主義的社会の象徴のような言葉だからだ。家父長制では、女性の最大の役割は子供を産むことで、産めない女は石女として蔑まれる。しかし人間は、子供を産むために生まれてきたのではない。人間が実存と呼ばれる最大の理由がそこにある。生命は自己複製のシステムであり、人間は生命ではあるが、人間にとって自己複製は義務ではないのだ。
 マイノリティの人権擁護が声高に叫ばれる先進国の都会では、子供を産むことを否定する主張まである。それはやや行き過ぎの気もするが、後進国や田舎、それに権力者の間では、まだ家父長制の価値観が幅を利かせている。人口の増加が共同体の繁栄に直結するという思想である。子供を産むことが女性の義務だと主張する老害政治家の発言が、いまでも報道されているくらいだ。
 
 本作品は、山奥の寒村が舞台だ。女は子供を産まなければならない、共同体の価値観に反対する女は、すべて魔女として排除するという、共同体としての歪みが頂点に達したかのような村である。
 そんな村と母親からせっかく逃げ出したのに、シャロータはどうして村に戻ってきたのか。それは村長からの呼び出しが届いたからだけではないと思う。過去の行為に対する罪悪感もあることはあるが、その行為の結果を確かめたい心理が主体だろう。犯罪者が現場に戻って自分の犯罪を確認しようとするのと同じだ。放火犯は現場の野次馬の中にいる。
 そして共同体の歪みの中で自分と妹が育ったこと、共同体の歪みは、少しも変わっていないことを理解する。しかし再び逃げ出そうと決めたタイミングが、少し遅かった。
 
 共同体や組織のために個人を犠牲にしようとする考え方は、世界中に蔓延している。日本ではラグビーのワンチームという言葉が流行語になったが、当方は気持ち悪さしか感じなかった。ワンチームは、同調を強制し、同調しない者を排除する全体主義である。明らかに戦前の軍国主義と同じ精神性だ。21世紀になっても、まだ共同体の呪縛が個人の人権を蹂躙し、自由を侵害しているのだ。
 
 本作品がスロバキアとチェコの共同作品だということに、ある感慨がある。以前はチェコスロバキア共和国というひとつの国で、ナチスによって一度解体されたときがある。ナチスの圧政に対する地下運動を描いた「抵抗のプラハ」という映画があった。大戦後、再びチェコスロバキア社会主義共和国として復活したが、ソ連の崩壊に伴って、チェコとスロバキアに分裂した。
 
 チェコ語とスロバキア語は似ているが、違いもあるそうだ。本作品では、シャロータを演じたナタリア・ジェルマーニがスロバキア出身であることから、おそらくスロバキア語が使われていたと思う。
 原題の「Svetlonoc」は、スロバキア語で「明るい夜」という意味らしい。鑑賞すれば分かるが、祭りのシーンから、幻想と象徴のシーン、それに火災のシーンまで、夜に光があるシーンがたくさんある。しかし本作品が描きたかったのは、光とは逆の、闇の方ではないかと思う。共同体の闇。それは取りも直さず、人間の闇でもある。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。