三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」

2019年05月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」を観た。
 http://bokutachi-kibou-movie.com/

 石川啄木に「強権に確執を醸す」という言葉がある。26歳で死んだ詩人の胸のうちは今となっては知る由もないが、天皇を絶対権力として帝国主義政策を進める明治政府の強権的なやり方に反発を覚えていたのは間違いない。幸徳秋水たちによる大逆事件も少なからぬ影響を若い詩人に与えたはずだ。
 本作品の若者たちも啄木に似て、社会主義のパラダイムを一方的に押し付けるソ連に対して、上手く説明できないながらも、精神的な自由を奪われつつあることに容易ならざる危機感を覚えているように見える。18歳ともなれば、思春期の反抗と違い、弾圧に対しては敏感に反応する、感性の鋭い年齢である。
 予告編の通り、授業の冒頭にハンガリーの武装蜂起の犠牲者に対して追悼の意味の2分間の黙祷を実行し、権力側がこれを反体制(反革命)と見做して弾圧するというストーリーだ。かつての日本の過激派と同じく、仲間同士のリーダーシップや裏切りに対する倫理観が絡み、若者たちは一枚岩ではあり得ない。そして体制側は容赦なくそこにつけ込んでくる。そして若者たちの家族も、決断を迫られる。
 役人たちは皆ソ連の傀儡だが、傀儡であることを卑下する気持ちはない。寧ろ自分たちは傀儡ではないと思っているフシがある。自分の立場を正当化する思いが強く、それがそのまま反体制的な勢力への弾圧に直結する。役人たちの若者への弾圧が容赦ないのは、それが役人たち自身のレーゾンデートルだからである。
 かつてロシア革命に熱狂したロシアの民衆は、その後長きに亘って政治局による圧政に苦しむことになった。権力は必ず腐敗するという鉄則は、いつの世でも正しい。権力は統治システムとして官僚機構を構築し、官僚はある種の特権階級として国民を支配しようとする。国民はもはや国民ではなく、帝国主義時代の臣民に等しい。そしてソ連は自国だけでなく、世界大戦のドサクサで縄張りにした東側諸国のすべての国民をソ連帝国主義の臣民として支配しようとした。若者たちが反発するのは当然である。
 映画の背景にある時代は、権力行使がストレートだったが、現代はインターネットの時代で情報が猛スピードで拡散するから、権力は以前のような暴力的な手法を取ることができなくなった。何をするかというと、インターネットを逆用してフェイク情報を大量に流すのである。流れてきた情報を取捨選択する能力のある人はいいが、多くの人はインターネットの情報をそのまま鵜呑みにしてしまう。自分で考えることをしないからである。現代の教育がそういう風に育ててきたのだ。
 そして若者たちは情報の真実を探求することなく、権力のいいように操られ、投票する。かつての若者たちが命がけで戦ったことなど、もはや知る由もない。国のため、子どもたちのため、家族のためという大義名分は、権力が民衆を欺くときに使う言葉である。本作品の若者たちのように、国のためでも家族のためでもなく、自分のために戦うことが正しいことなのだと気づかなければならない。権力は常に腐敗する。若者たちが「強権に確執を醸す」ことは、世の中のバランスを保つために必要不可欠なことなのだ。
 作品としては当時の様子や軍人が街中のいたるところにいるという戦後のヨーロッパの有り様が十分に伝わってきた。役者陣はみんな上手い。ナチズム、ファッショ、社会主義といったイデオロギーに関する発言が飛び交うのは、やはりそういう時代だったのだ。人は多かれ少なかれ、時代を背負って生きている。戦争の惨禍の記憶は未だに消えず、若者たちは不安と恐怖の中に生きている。安全無事を目指すのは簡単だが、強権と戦っている人々に対して恥ずかしい生き方はできない。当時の若者たち、そして彼らを取り巻く人々の複雑な葛藤が伝わってくるいい作品だった。


芝居「木の上の軍隊」

2019年05月21日 | 映画・舞台・コンサート
 新宿のTAKASHIMAYAサザンシアターでこまつ座の公演「木の上の軍隊」を観た。
 テレビ朝日のドラマ「相棒」の「ヒマか?」の課長でおなじみの山西惇が主演の舞台である。山西演じる上官と兵卒が戦時中に木の上に逃げて、そのままそこで何年も暮らすという話である。
 井上ひさしは「父と暮せば」で広島の原爆のあと、「母と暮せば」で長崎の原爆のあとの庶民の暮らしを描いた。両方とも、戦争がどれほど人間性を蹂躙したかを思い知らされる芝居であった。
 本作では兵隊が主役であり、戦争に行かされた人々がどういう思いだったのかの典型的な二人を描く。上官役の山西惇は大変な好演で、改めてこの人の役者としての実力を見直した。時にコミカル、時にシニカルで、そして時にニヒルな上官という複雑な人格の役を見事に演じきった。
 二等兵役の松下洸平も上官に相対する線の細い兵卒を上手に演じた。狂言回し役の普天間かおりは歌も上手でナレーションもいい。音楽はビオラの有働皆美さんが一手に引き受ける。
 終幕に向けて徐々に盛り上がる演出で、最後は泣けて泣けて仕方がなかった。やっぱり戦争はダメだ。

映画「初恋 お父さん、チビがいなくなりました」

2019年05月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「初恋 お父さん、チビがいなくなりました」を観た。
 http://chibi-movie.com/

 財津和夫の「サボテンの花」では、些細な出来事で簡単に壊れてしまう男女の関係性が淡々と歌われる。夫婦も恋人も元は他人だ。親兄弟でさえ解り合えないのに、育った環境の異なる他人同士が解り合えることはない。
 もっと古い歌だが長谷川きよしが歌った「黒の舟唄」は、男と女は互いに解り合えることがないと知っていて、それでも解り合おうとするものだという歌詞である。
 そして北山修と加藤和彦の「あの素晴しい愛をもう一度」では、同じ花を見て美しいと思うことが幸せなのだと歌う。人は解り合うことはできないが、共感することができるという意味だ。
 人は他人の死を死ぬことができない。他人の苦しみを苦しむことができない。どれほど時を過ごしても、どれだけ言葉を交わしても、人は他人を理解することはない。この人はこういう人だと決めつけることはできるし、多くの人がやり勝ちだが、大抵の場合、間違っている。決めつけることは理解することとは程遠いことなのだ。
 しかし北山修の詞のように共感することはできる。共感は共生感に繋がり、同じ時間、同じ空間を生きていると実感する。そこに感動があり、喜びがある。作家や哲学者は、深夜にひとりで執筆しているとき、全人類との大いなる共生感を感じることがあるという。

 さて本作品は、年老いた夫婦が共生感を喪失する話である。といっても妻の側がそう思うだけで、夫のほうは気持ちが通じているものと思っている。そのズレがドラマになる。
 倍賞千恵子と藤竜也という名人二人の芝居はスキがなく、かといって過度な緊張もない。適度に思いやりがあり、適度に突き放しがある。その絶妙な空気感の中で日常的なストーリーが坦々と心地よく進んでいく。
 老いた夫は駅前でアイデンティティの危機を迎え、帰宅して妻に出来事を話そうとしたときに、逆に離婚の意思を告げられる。そのときの藤竜也の表情は、複雑な思いが絡み合って逆に無表情になってしまう顔であり、その無表情の中にも落胆、失望、諦め、それに妻への思いやりを感じさせ、これぞ名優と改めて感心する名演技であった。
 普通の人の普通の暮らしの中にもドラマがあり、人生があるのだなと再認識させてくれるほのぼのした佳作である。