三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「ロイヤルホテル」

2024年07月31日 | 映画・舞台・コンサート
 映画「ロイヤルホテル」を観た。
 
 オーストラリアは元々イギリス人が移住した土地だから、自動車は左側通行で右ハンドルだ。英語の発音もイギリス人に近いところがある。もっとも特徴的なのは、ayをアイと発音することだ。dayをダイ、todayはトゥダイ、payはパイとなる。最初聞いたときは、today が to die に聞こえて、何を言っているのか意味不明だった。
 
 ハンナとリブはカナダ人の設定だから、オーストラリア人の発音がときどきわからない。それが地元の人を苛つかせる理由のひとつになっている。アメリカ人やカナダ人の中には、オーストラリア人やオーストラリア英語を馬鹿にする人もいる。
 本作品はオーストラリア映画だから、馬鹿にされて僻んでいる精神性が存在することを、客観的に描きたかったのだろう。ただ、僻んでいるのは男ばかりだ。それはつまらないプライドの裏返しでもある。
 そして本作品が描きたかったのが、男尊女卑の時代遅れの精神性である。つまらないプライドに直結する精神性だ。いじめっ子の精神性でもある。ロイヤルホテルのパブは、頭の悪いガキ大将並みの愚かな空気に満ちている。ガキ大将らしく、暴力にも走りやすい。若い女性なら、身の危険を感じるのは当然だ。
 
 そもそも店長からして女性に向かって cunt という蔑称を使う。人格が破綻しているのは明らかで、それは将来が見えないことに由来するのだろう。客たちも同じだ。将来も未来も夢も希望もなく、帰る場所もない。仕事と酒にありつけるなら、ここで生きていく。どうせ最後は野垂れ死にだ。未来のないパブには、腐臭が漂う。
 ハンナもリブも、カナダでは居場所がなかったようで、逃げ出すようにオーストラリア旅行に来たのに、金がなくなってこんなところで働く羽目になった。リブは運命を受け入れているようで、どんどん刹那的になっていく。しかしハンナは、自分は違うと思っている。ここは人間らしく生きる場所ではない。
 
 ロイヤルホテルは、オーストラリアという国の縮図かもしれない。愚劣ないじめっ子で溢れていて、互いに貶めあって生きている。他人を貶めることでしか生きていけないのだ。その愚かさはオーストラリアだけでなく、世界中に蔓延しつつある。世界がロイヤルホテルになってしまったら、人間の帰る場所はない。

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