三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「どちらを」

2019年04月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「どちらを」を観た。

 映画の中には説明過多な作品がある。そういう作品を観るとくどいなあと感じるし、場合によっては校長先生の話みたいに辟易してしまう。逆に説明が不足していると、物語の本質が掴めないまま、消化不良に終わってしまう。
 本作品はそのいずれでもなく、すべてのシチュエーションはきちんと説明され、観客はそれを踏まえた上で、省略されたシーンについて考えることができる。謂わば観賞後の楽しみをお土産として残したような作品だ。
 タイトルの通り、二者択一のシーンがいくつかあり、選んだシーンは短い暗転で省略されて、その次のシーンになる。どちらを選んだのかは、同じ映画を観た者同士で酒でも飲みながら話したら、さぞかし愉快に違いない。
 黒木華はやっぱり上手だ。冒頭のスーパーで明太子選びに悩む様は生活が苦しいことを分かりやすく表現しているし、明太子を息子だけに食べさせるシーンから、愛情深い母親であることがわかる。黒木華自身はまだ29歳だが、40歳位の役も普通にこなせるのだと改めて感心した。
 母親というのは畑みたいなもので、レイプされてできた子供でも、子供は子供だと愛情を籠めて育てることができる。育ったのは作物ではなくて人間だから、選択の自由を持っている。自分で選択できる年齢になったと判断して、息子に選択させるというのがこの作品の肝である。
 ラストシーンの晴れやかな表情からして、息子がどのような選択をしたのかは明らかである。そして遡って、どちらの明太子を選んだのかもわかる。ほのぼのとした中にも人生の真実がある、傑作である。


映画「父 帰る」

2019年04月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「父 帰る」を観た。

 同時に上映された三作品の中では、本作品が最も映画らしかったが、演出が非常にユニークだ。舞台稽古みたいな、あるいは俳優のオーディションのような設定で、役は同じだが俳優が次々に入れ替わるという斬新な手法である。
 菊池寛の「父帰る」は林家三平の落語にも登場するメジャーな文学作品で、本作品はその戯曲をほとんど踏まえていると言っていい。
 人間の存在は、思い出や想定などで話に出てくる観念的な存在ならば、簡単に切って捨てることができるが、質量と体積を持った実物の人体として眼前にあると、なかなか無視はできないし、それなりの重みがある。人には情があるからだ。世間一般の父親という役割を果たしていなくても、父は父であるという時代でもあった。
 親と書いてしたしむと読む。つまりは鳥と同じで、身近にいるから愛著が湧いただけの話なのだ。個体としての父ではなくて、普遍的な意味合いでの中年男だと思えば、情が湧くことはなかっただろう。その辺りが人間の切ない部分であるし、おそらく菊池寛は前向きに評価しているところでもあるだろう。
 愛と憎しみは表裏一体である。愛も憎しみもなければ、それは無関心ということになる。愛の反対は無関心であるが、無関心が悪とは限らない。父親を他の男性と区別しないで同じように接することができるのは、愛著から脱却して悟りの境地に入った者だけだ。人間は愛著という苦しみから解放されず、いつまでも人間関係の中で苦しみ続けるのだ。菊池寛の戯曲の本当の意味はそこにある。
 本作品は菊池寛の戯曲をほぼそのまま上演した作品で、菊池寛の深い世界観がその重さのままに迫ってくる。見ごたえのあるいい作品ではあるが、映画としての独自性や個性、主体性には欠けており、評価は微妙と言わざるを得ないだろう。ただ役者陣の演技はかなり洗練されていて、高く評価できると思う。


映画「八芳園」

2019年04月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「八芳園」を観た。

 なかなかユニークな試みの映像である。映画と呼ぶにはプロットも脚本もなく、不足しているものが多すぎるので、映像と呼ぶことにした。
 タイトルがほぼすべての内容を説明している。東京に住んでいる人なら大抵ご存じと思うが、八芳園は有名な結婚式場のひとつである。つまり舞台は結婚式だ。それも集合写真の場面だけである。
 結婚式に出席した人たちの顔だけをひたすら映し出す。楽しげな表情、渋い表情、嘘臭い笑顔、それに無関心。シャッターまでの待ち時間は、人はそれぞれにこの結婚式に対する立場の差、思い入れの差、感情の差が読み取れる、リラックスした表情、ある意味で油断した表情を浮かべている。
 しかし新郎新婦が着席し、いよいよシャッターが切られる段になると、人びとは急に自意識が高まり、自分がどのように写真に写るかを気にしはじめる。スナップ写真が映すのは人びとの自然な表情だが、ポーズ写真は、その人がどのように映りたいかと思っている、その表情を映し出す。本音があり、建前があるのだ。
 写真にどういう風に映りたいかは、その人の価値観が決めることだ。しかし思惑通りに映るとは限らない。顔にはその人の生きてきた様々なものが刻まれているからだ。改めて、人の顔は人生だと、そう思わせる作品であった。なかなかいい。