三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「洗骨」

2019年04月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「洗骨」を観た。
 http://senkotsu-movie.com/

 本作品のスケールの大きな世界観に驚いたというのが、鑑賞後の正直な感想である。
 映画の前半は、地方の島らしく未だに残る封建主義と家族主義の価値観が登場人物を支配していて、少し嫌悪感を覚えた。そういう閉じ込められたような価値観の中で進む物語なのかと思ってしまった。そして奥田瑛二演じる主人公新城信綱の魂の再生が主なテーマなのだろうと勝手に予想してしまう。前半は、ある意味退屈である。
 ところが後半になると、主人公は必ずしも信綱ではないと思いはじめる。そして登場人物たちのセリフが、封建主義や家族主義から逸脱して、本音で語りはじめる。それまで感情移入できなかった登場人物たちが俄然輝き出し、人間的な魅力に溢れてくる。そのきっかけは意外にもハイキングウォーキングのQ太郎の登場であった。
 島の風習を熟知し、島の考え方に染まっている人たちばかりのところに、考え方の異なる未知の人間が現れれば、それだけでダイナミズムが生じる。異世界であった島の出来事が身近なものとなり、洗骨という儀式が現実味を帯びてくる。それから先は怒涛の展開で、男たちによるプチ巻網漁での小魚獲りから洗骨に至る数々の場面は、息を呑むシーンの連続であった。あるときはほのぼのして、あるときは緊張感があり、あるときは厳かである。これほどのシーンを撮ることができた照屋監督は賞賛に値する。
 俳優陣はQ太郎も含めて好演。特に大島蓉子の迫力のある演技は、流石に舞台で鍛えられただけある。一瞬でその場の空気を決めてしまうほどである。水崎綾女は河瀨直美監督の「光」で永瀬正敏を相手に主演を務めた。そのときは目に力のある女優さんという感想だったが、本作品でも同様に目に力をためて、封建的な島のパラダイムや、ひとりで生きていく不安と闘う気持ちをそれなりに表現できていたと思う。
 島の風景は何処も美しい。植物も動物も全て包み込んで海に囲まれている様子は、静かに微笑む女性のようでもある。筒井道隆のモノローグに少し説明過多を感じたが、島と人、生と死をこれほどうまく、そして同時に表現した映画ははじめて観た。死ときちんと対峙し、生命ときちんと対峙する。その圧倒的なリアリティに、これまで経験したことのない不思議な感動を覚えた。傑作である。


映画「In den Gangen」(邦題「希望の灯り」)

2019年04月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「In den Gangen」(邦題「希望の灯り」)を観た。
 http://kibou-akari.ayapro.ne.jp/

 ミハイル・ゴルバチョフがペレストロイカ、グラスノスチという政策を実行して、ベルリンの壁の取り壊しに至ったことを、ただ純粋にいいことのように思っていた。しかし東側諸国の人々がそれで救われたのかについては、思いが至っていなかった。それは資本主義=自由、社会主義=束縛というステレオタイプの考え方に脳が硬直していたからかもしれない。
 人間の幸せとは何か、生き甲斐とは何かについて、改めて考えさせられる作品である。無口な主人公の控えめな生き方には、希望と絶望、怒りと諦めが互いにせめぎあっている内面がありありと感じられ、誰もが共感せざるを得ない。生きていることは悲しいことなのだ。
 ドイツ語のタイトルは「通路にて」みたいな意味だと思う。フォークリフトが行き交う巨大スーパーの通路で陳列棚を挟んで主人公クリスティアンとマリオンが笑顔を交わす。
 役者はみな素晴らしい演技だった。特にブルーノを演じた俳優は、これこそまさに中年男の悲哀という表情をする。人は時代に育てられて大人になり、大人になったら時代に飲み込まれて行き場を失なう。
 しかし行き場を失っても生きていかねばならない現実がある。そこで人は小さな楽しみを見つけ出す。それは仕事が終わってから一杯だけ飲むビールでもいい。今日買った靴を明日の朝履くことでもいい。または職場の女性と昨日よりも少しだけ仲よくなることでもいい。
 ドイツの人々にとって、ヨハン・シュトラウス二世は特別な音楽家なのかもしれない。「美しく青きドナウ」の旋律が広い通路に流れるように響き渡る。これを聞くのを楽しみにしている人もいる。
 そういった楽しみを心の灯火にして、明日までは生きられる。しかしできることなら、他人から必要とされたい。無用と思われたら小さな楽しみも消えるだろう。
 主人公が仕事帰りに顔なじみのバスの運転手に今日はどんな一日だったかを聞かれ、いい一日だったと答える場面は素晴らしい。仕事の愚痴は言うものではない。そんな優しさがあり、思いやりがある。いい映画だった。


映画「麻雀放浪記2020」

2019年04月21日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「麻雀放浪記2020」を観た。
 http://www.mahjongg2020.jp/

 阿佐田哲也の文庫本は何冊か読んだことがある。本名の色川武大名義で直木三十五賞を受賞した「離婚」も読んだ。阿佐田哲也名義の本はすべて麻雀の本で、引っ越しの際に全部処分してしまったので読み返すことはできないが、いくつかのフレーズやシーンは頭に残っている。特に印象的だったのが、老人たちと麻雀を打つ場面で、金は賭けていないが別のものを賭けていると言う。それは体の一部を取ることだ。負けたら片方の腕か、片方の目か、また歯を全部取られるか。阿佐田哲也は牌を握りながら脂汗を掻いて震えてしまう。それを見て老人たちは「阿佐田哲也が震えている」と笑う。実は彼らは戦争で身体の一部を失った人たちで、それを利用して有名な雀士の阿佐田哲也に一杯食わせたのだ。

 麻雀のシーンは、麻雀を知らない人には意味不明だろう。昔は全自動卓などなく、手積みで牌を積んでいた。イカサマを防止するためにサイコロを二度振る。一度目はどの山から取るかを決めるサイコロを親が振る。数の割当ては東家(トンチャ)である親が一で南家、西家、北家が二、三、四となる。五以降は再び東家から回る。麻雀が東西南北ではなく東南西北なのは右側の人に親が移っていく周りを示しているからである。一度目のサイコロで自分の山から取ることになった人が二度目のサイコロを振る。何度か出てきた二の二の天和(テンホー)というシーンでは、親が二を出し、南家も二を出して、合計の4山(8牌)を残して南家の山から配牌を取る。親と南家が協力して積み込めば、天和で上がることが可能だ。

 麻雀の解説はそれくらいで作品についてだが、幾多の突っ込みどころをすべて飲み込んで観れば、そんなに悪くない。昭和風のエロとナンセンスがオリンピックを笑い飛ばすところが特にいい。政府側の悪徳政治家がピエール瀧というのも、いまとなってはブラックジョークだ。実際の東京オリンピック組織委員会の森喜朗のほうは、国民の税金を思い切り無駄遣いしているから、ピエール瀧の何千倍も悪党である。
 冒頭では思い切りのいい暴力シーンの演出が冴えている。国家主義に戻った日本で警察官が反体制の人々を直接的な暴力で弾圧するプロットも面白い。その一方でオリンピックが中止となった不満を持つ大衆に対して、麻雀大会を開いて誤魔化そうとしているところは、目先を変えてはぐらかすアベ政治とそっくりだ。オリンピックよりも麻雀のほうがずっと面白いという価値観は洒落が効いている。
 役者陣はそこそこ健闘している。斎藤工はエキセントリックな役柄を上手にこなしていたし、竹中直人は名人だ。しかし的場浩司のドサ健だけはハズレ。小説のドサ健はもう少し人間に深みがあった。ベッキーは演技に難があるのを無表情なAIの役にすることで、逆に妙な色気が出たところがいい。脚を舐めるように映すシーンはフェティシズムを刺激する。ベッキーはやっぱり脚だなあと、変な感想を思ってしまった。