三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「First Reformed」(邦題「魂のゆくえ」)

2019年04月15日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「First Reformed」(邦題「魂のゆくえ」)を観た。
 http://www.transformer.co.jp/m/tamashii_film/

 最初から最後までイーサン・ホーク演じる主人公トラー牧師がほぼ出ずっぱりで、観客は否応なしに主人公の内面の葛藤を共有し続けることになる。しんどい作品だが、不思議に目が離せない。
 メアリの夫マイケルとの議論のシーンが本作品の白眉であろう。それぞれ自分の感情を抑制しながら相手を理解しようとし、真摯に話そうとする。ふたりの議論は平行線だが、もともと立ち位置が違う。人は相手の意見を尊重することはできるが、まったく違う意見の持ち主同士が同じ意見になることは滅多にない。その辺りは議論している本人たちが一番よく解っている。
 このシーンが映画の中で最も大事なシーンだと思う理由は、この会話によって主人公の本音が垣間見えるからである。トラー牧師は人間には希望と絶望の両方があると言いながら、本当は絶望しかないと思っている。しかしマイケルには、たとえ未来に絶望しか見えないとしても、人間は日々の行動を選択しなければならないと説く。殆ど実存主義者の弁舌だ。宗教家とは思えない。神への信仰は揺らいでいないかもしれないが、教会への不信は募る。そういうトラーがプロテスタントの牧師であるところに、彼の深い苦悩がある。そして観客は彼の苦悩を共有する。実によくできた会話である。
 大袈裟なCGも大音量のBGMもなく静かに物語は進んでいくが、人間にはどんな状況でも世界との関わりがあり、日常生活が待っている。理念と現実とのギャップは常にあり、例外なく人を苦しめる。死ぬ以外に断ち切る術はない。
 イーサン・ホークは名演であった。映画「しあわせの絵の具 愛を描く人 モード・ルイス」の演技も傑出していたが、本作品での演技は苦悩に満ちた牧師の魂が、苦悩の重さのままに迫ってくるような重厚感がある。観ていて息苦しくなるほどだ。そういう意味では本作品の邦題「魂のゆくえ」はぴったりである。
 アマンダ・セイフライドはいつもながら達者である。本作品はストーリーからディテールまで。とてもリアルな作品だから、大仰な演技は一切ないが、憂いを秘めた大きな目が様々な感情を物語る。最後の最後に「トラー牧師」ではなく「エルンスト」と呼ぶシーンには息を呑んだ。
 ネタバレになりそうなシーンが多くて、レビューの書きづらい作品だが、ラスト近くのシーンでは、映画「ダ・ビンチ・コード」のシラスを思い出した。あれはカトリックの修道士であったはずだ。プロテスタントであるトラー牧師の信仰が揺らいでいることの証かもしれない。

 総じて難解だが、魂が引き込まれる名作だと思う。


映画「どちらを」

2019年04月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「どちらを」を観た。

 映画の中には説明過多な作品がある。そういう作品を観るとくどいなあと感じるし、場合によっては校長先生の話みたいに辟易してしまう。逆に説明が不足していると、物語の本質が掴めないまま、消化不良に終わってしまう。
 本作品はそのいずれでもなく、すべてのシチュエーションはきちんと説明され、観客はそれを踏まえた上で、省略されたシーンについて考えることができる。謂わば観賞後の楽しみをお土産として残したような作品だ。
 タイトルの通り、二者択一のシーンがいくつかあり、選んだシーンは短い暗転で省略されて、その次のシーンになる。どちらを選んだのかは、同じ映画を観た者同士で酒でも飲みながら話したら、さぞかし愉快に違いない。
 黒木華はやっぱり上手だ。冒頭のスーパーで明太子選びに悩む様は生活が苦しいことを分かりやすく表現しているし、明太子を息子だけに食べさせるシーンから、愛情深い母親であることがわかる。黒木華自身はまだ29歳だが、40歳位の役も普通にこなせるのだと改めて感心した。
 母親というのは畑みたいなもので、レイプされてできた子供でも、子供は子供だと愛情を籠めて育てることができる。育ったのは作物ではなくて人間だから、選択の自由を持っている。自分で選択できる年齢になったと判断して、息子に選択させるというのがこの作品の肝である。
 ラストシーンの晴れやかな表情からして、息子がどのような選択をしたのかは明らかである。そして遡って、どちらの明太子を選んだのかもわかる。ほのぼのとした中にも人生の真実がある、傑作である。


映画「父 帰る」

2019年04月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「父 帰る」を観た。

 同時に上映された三作品の中では、本作品が最も映画らしかったが、演出が非常にユニークだ。舞台稽古みたいな、あるいは俳優のオーディションのような設定で、役は同じだが俳優が次々に入れ替わるという斬新な手法である。
 菊池寛の「父帰る」は林家三平の落語にも登場するメジャーな文学作品で、本作品はその戯曲をほとんど踏まえていると言っていい。
 人間の存在は、思い出や想定などで話に出てくる観念的な存在ならば、簡単に切って捨てることができるが、質量と体積を持った実物の人体として眼前にあると、なかなか無視はできないし、それなりの重みがある。人には情があるからだ。世間一般の父親という役割を果たしていなくても、父は父であるという時代でもあった。
 親と書いてしたしむと読む。つまりは鳥と同じで、身近にいるから愛著が湧いただけの話なのだ。個体としての父ではなくて、普遍的な意味合いでの中年男だと思えば、情が湧くことはなかっただろう。その辺りが人間の切ない部分であるし、おそらく菊池寛は前向きに評価しているところでもあるだろう。
 愛と憎しみは表裏一体である。愛も憎しみもなければ、それは無関心ということになる。愛の反対は無関心であるが、無関心が悪とは限らない。父親を他の男性と区別しないで同じように接することができるのは、愛著から脱却して悟りの境地に入った者だけだ。人間は愛著という苦しみから解放されず、いつまでも人間関係の中で苦しみ続けるのだ。菊池寛の戯曲の本当の意味はそこにある。
 本作品は菊池寛の戯曲をほぼそのまま上演した作品で、菊池寛の深い世界観がその重さのままに迫ってくる。見ごたえのあるいい作品ではあるが、映画としての独自性や個性、主体性には欠けており、評価は微妙と言わざるを得ないだろう。ただ役者陣の演技はかなり洗練されていて、高く評価できると思う。


映画「八芳園」

2019年04月10日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「八芳園」を観た。

 なかなかユニークな試みの映像である。映画と呼ぶにはプロットも脚本もなく、不足しているものが多すぎるので、映像と呼ぶことにした。
 タイトルがほぼすべての内容を説明している。東京に住んでいる人なら大抵ご存じと思うが、八芳園は有名な結婚式場のひとつである。つまり舞台は結婚式だ。それも集合写真の場面だけである。
 結婚式に出席した人たちの顔だけをひたすら映し出す。楽しげな表情、渋い表情、嘘臭い笑顔、それに無関心。シャッターまでの待ち時間は、人はそれぞれにこの結婚式に対する立場の差、思い入れの差、感情の差が読み取れる、リラックスした表情、ある意味で油断した表情を浮かべている。
 しかし新郎新婦が着席し、いよいよシャッターが切られる段になると、人びとは急に自意識が高まり、自分がどのように写真に写るかを気にしはじめる。スナップ写真が映すのは人びとの自然な表情だが、ポーズ写真は、その人がどのように映りたいかと思っている、その表情を映し出す。本音があり、建前があるのだ。
 写真にどういう風に映りたいかは、その人の価値観が決めることだ。しかし思惑通りに映るとは限らない。顔にはその人の生きてきた様々なものが刻まれているからだ。改めて、人の顔は人生だと、そう思わせる作品であった。なかなかいい。


映画「the basis of sex」(邦題「ビリーブ 未来への大逆転」

2019年04月07日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「the basis of sex」(邦題「ビリーブ 未来への大逆転」を観た。
 https://gaga.ne.jp/believe/

 シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「第二の性」を読んだことのある人なら「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な言葉をご記憶だと思う。性徴としての人間の雌が「かくあらねばならぬ」というパラダイムによって「女」にされていく過程をいみじくも言い表している。
 ボーヴォワールは実存主義をフランスに広めたジャン・ポール・サルトルの生涯の伴侶であった。サルトルは人間はアンガージュマンという選択の自由を常に持っている実存であると説いた。しかしボーヴォワールは、女は共同体のパラダイムによって選択の範囲を狭められ、そのため様々な可能性の芽を摘まれ、生き方を限定され、結果的に多くの不利益を被っていることを指摘した。
 「第二の性」が出版されたのは第二次大戦後の1949年。そこからさらに長い戦いが待っていた。本作品では、sexという単語と、genderという単語の両方が登場する。第一次性徴としてのsexに対して、genderはボーヴォワールの「女になる」という意味合いでの性を示している。
 本作品は、虐げられてきた女性の立場を法律面から解放し、女性の権利を取り戻そうと闘う女性法律家の話で、法廷闘争のドラマであるが、法律の専門的な理屈があまり登場せず、素人にもわかりやすい筋立てとなっている。
 そもそも法律が何のために作られたのかについては、共同体が成立した歴史を習った人間なら皆知っていると思う。狩猟採集の移住生活から始まり、やがて定住して牧畜や栽培に移行すると、作業協力や治水などでリーダーシップをとる者が現れる。最初はシャーマンなどの直感的なリーダーだったのかもしれない。しかしその後はリーダーが固定化し、世襲を繰り返すようになった。そして規則を定めて共同体内部を締め付ける。それが法律である。リーダーの目的は今も昔も共同体の維持と自分の地位を守ることだ。古今東西、あらゆる法はその目的に即して作られている。
 法が民衆の自由と平等のためでなければならないと決められたのは、市民革命以後のことである。日本でも戦後の憲法によって民主的な法体系の根本が決められた。それ以前は民衆のためではなく天皇と国のための法だった。
 アメリカ独立戦争後に起草された合衆国憲法には「人民とその子孫の自由の恩恵を守ることを目的として、合衆国のために憲法を制定する」と書かれている。この文章は人民の自由のためと、アメリカ合衆国のためという二重の目的の文章となっていて、アメリカ社会が愛国心と個人主義の間で引き裂かれ続けている原因のひとつであるような印象を受ける。
 社会科の復習みたいだが、三権分立の原則により、裁判所は法律が違憲でないかを審査する権利を持っている。しかし裁判所は滅多に違憲の判断をしない。それに本来は国権の最高機関であるはずの国会は内閣の法案の自動承認機関になっている。行政のやりたい放題である。アメリカも日本も同じだ。
 しかしアメリカは、弱体化しているとはいえマスコミがまだ第4の権力として事実を報道し、国民に判断材料を提供しているだけまだマシだ。日本のマスコミは完全に政府官邸の応援団となっていて、翼賛報道を繰り返し、大本営発表を垂れ流す。利権まみれのオリンピックに反対する気骨のあるジャーナリストはもはや日本には存在しないのだ。ギンズバーグのような戦い続ける法律家がいるアメリカが、ある意味羨ましくもある。
 役者陣は総じて好演。特に夫役のアーミー・ハマーが秀逸。控えめに妻を支える夫の遠慮がちな立ち位置を上手に表現していた。主人公を演じたフェリシティ・ジョーンズはいまひとつ知的さに欠ける部分があったが、意志の強さを眼差しに浮かべる演技は評価できると思う。
 原題の「The basis of sex」に対して邦題はいただけない。法廷ドラマらしく「性別の根拠」といった直訳的なタイトルにしたほうがよかった。大逆転した未来は、未だに訪れていないのだ。


映画「Shock and Awe」(邦題「記者たち 衝撃と畏怖の真実」)

2019年04月02日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Shock and Awe」(邦題「記者たち 衝撃と畏怖の真実」)を観た。
 http://reporters-movie.jp/

 スターティングロールの最初に字幕監修が池上彰とあったが、池上さんはタイ料理にあまり詳しくないのか、情報提供者がトミー・リー・ジョーンズにパッタイが好きと言ったのを、タイ料理が好きという字幕にしてしまった。パッタイはタイ料理の焼きそばで、風味や味付け、麺の質などが中華の焼きそばとかなり異なる。たかが料理の話と言うなかれ。例えば外国人が日本料理が好きと言うのと、茶碗蒸しが好きと言うのとでは、かなりニュアンスが異なる。茶碗蒸しが好きと言われれば、その人は日本料理についてそれなりの造詣があるかもしれないと思うだろう。それに料理の名前を上げることで、その人は物事に対して具体的で正確な捉え方をする人だというイメージを作ることができる。映画の製作者は言葉にとても敏感だ。何故タイ料理ではなくパッタイなのか、きちんと考えて字幕にしてほしかった。万が一映画ファンはパッタイを知らないだろうという理由でタイ料理にしたとすれば、それは映画ファンを侮っている。
 字幕についてはもうひとつ、パトリオティズムとナショナリズムを、愛国心と愛国主義という字幕にしてしまっていたが、これも愛国主義と国家主義と、正しい字幕にするべきだ。アメリカでは愛国者であることは社会人としての必須条件で、自分は愛国者ではないと言うと村八分の対象となる。しかしアメリカの愛国心は、ともすればトランプのようなアメリカ第一主義に陥りがちであり、ブッシュ政権のイラク侵攻を支持したのも同じである。それでミラ・ジョボビッチはそういうのをパトリオティズムではなくてナショナリズムだと言った訳だが、愛国心そのものを否定できないアメリカならではの表現である。
 ハリウッドのB級大作の多くは、敵を探しだしてやっつける英雄が主役である。英雄はピンチに陥るが、最後は勝利する。予定調和の決まりきったハッピーエンドが喜ばれ続けるのは、観客の愛国心をくすぐるからである。民衆が共同体に精神的に依存している限りは、愛国心が善とされ続けるだろう。
 本作品の記者たちは、他の多くのメディアが政府の広報と堕す中で唯一、イラクにWMD(大量破壊兵器)がないことを主張する。その主張が正しく、ブッシュや小泉純一郎が間違っていたことは既に歴史が証明している。ブッシュを選び、トランプを選んだのはアメリカの有権者たちであり、愛国者たちである。愛国心がどれほど人の判断力を鈍らせるものか、記者たちには解っている筈だ。しかしそれでも愛国者であることをやめようとしないところに、アメリカという国が抱える問題の本質がある。そこまで踏み込んでほしかった。
 人間が共同体の呪縛から逃れ、寛容で平等な視点を獲得するまでには、まだまだ沢山の血が流れるだろう。その総量が人類のすべての血の総量に等しくならない保証はない。アメリカはこれからも、国内では銃の乱射事件を起こし、他国に向けては脅迫と恐喝を繰り返し、時には膨大な数の生命を奪い去るだろう。
 話せばわかるのは個人同士の関係で、共同体への帰属意識が絡むと、問題は絶対に解決には至らない。祖国や故郷といった言葉に感動しているうちは、人は優しさを会得することはないのだ。


芝居「十二番目の天使」

2019年04月01日 | 映画・舞台・コンサート

 日比谷のシアタークリエで芝居「十二番目の天使」を観た。普段どおり双眼鏡を準備して行くと、座席は前から二番目。流石にここでは双眼鏡は不要であった。
 ベタな芝居だが、子供が素直で前向きな、明るい台詞をいうのでついつい感動してしまった。観ると少しだけ前向きになれる。近くで見た栗山千明がとても美しかった。


映画「運び屋」

2019年04月01日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「運び屋」を観た。
 http://wwws.warnerbros.co.jp/hakobiyamovie/

 監督主演のイーストウッドの演技についてはもはや言うことがない。常に存在感がある演技だが、その存在感が場面によって異なる。本作品でも、最初の方の割と軽めのおじいさんから、徐々に人生の重圧や苦悩などが加わり、その存在感が重味を増していく。この辺の作り込みは見事である。
 ブラッドリー・クーパーは「アメリカン・スナイパー」でも主演を務めたように、イーストウッド作品との相性のよさを感じる。とんでもなく歌が上手い人だから、音楽に造詣の深いイーストウッドと合うのだろう。本作品では官僚主義の圧力を受け、時間的にも予算的にも制約を受けながら捜査をするDEA捜査官を演じる。この人の存在が作品に緊迫感を与え、お気楽な老人のロードムービーとは一線を画している。
 愛情の深い妻を演じたダイアン・ウィーストをはじめ、ギャング役の俳優たちも、演じているように見えないくらい上手な演技で、演出したイーストウッド監督の面目躍如である。

 イーストウッドの作品はこれまで、スケールの大きな世界観と人間の機微を上手に描いているという印象であった。しかし本作品の主人公アール・ストーンの「家族が一番だ」という台詞から、一瞬、イーストウッドも狭量な家族第一主義に陥ってしまったのかと思ってしまった。だがイーストウッド作品はそんなに単純ではない。
 本作品は、アメリカが抱えている様々な病巣を主人公アールに背負わせて、ひたすら自動車を運転させる物語だ。インターネットリテラシー、格差、戦争によるPTSD、仕事と家族サービスとの軋轢、麻薬汚染、人種差別など、どのシーンにもテーマがあり、ひとつのシーンに必ずしもひとつのテーマとは限らない。そういった複雑なシーンの数々にアメリカンジョークを絡め、さらにお得意の音楽を添える辺りは流石にイーストウッド、立体的で奥行きのある作品に仕上げきった。