映画「Taste of Cement」(邦題「セメントの記憶」)を観た。
https://www.sunny-film.com/cementkioku
ビルの建設現場で生コン打設のアルバイトをしたことがある。生コンは型枠の中に流し込む。鉄筋屋が鉄筋を組み、その周りを型枠大工が型枠で囲い、鉄筋と型枠の状態を現場監督が確認したら、生コン打設となる。ポンプ屋が来て、ミキサー車が来る。ポンプ屋のポンプにミキサー車から生コンを流し込み、ポンプでビルの上まで送る。ホースの先のロープを引いて、生コンを流し込む場所を移動していく。作業員が待ち構えて、スラブ(階を隔てる天井と床を兼ねたもの)の生コンはトンボで均し、壁の中の生コンは空気を出すのにバイブレータを入れて撹拌する。
ある日、生コンを間違って素手で触ってしまい、手が荒れてしばらく治らなかったことがある。ほぼ一皮剥けて、漸く元に戻った。生コン打設は危険で大変な作業だが、早い時間に終了するので人気の現場だった。
生コン打設から2週間ほど間を開けて、型枠を解体する作業になる。生コンがちゃんと乾き切っていれば、スラブが落ちることはない。その間にもさらに上の階の鉄筋組みや型枠張りが行なわれ、再び生コン打ちとなる。これを繰り返して最上階までが終わると、鉄筋工も型枠大工も解体工もお役御免となり、次の現場へ向かう。誰も無口で淡々としているが、一つの現場が終わると、それなりの感慨がある。打ち上げの飲み会で現場でのエピソードが披露され、笑いが起こる。日本は平和だ。
平和でない国の建設も同じように行なわれるが、折角造ったビルが、戦争によって壊されてしまう。ビルは忽ち凶器と化して、人々の上にのしかかり、生き埋めにする。どこからやって来たのか、沢山の人々が集まり、生き埋めになった人々を助けようとする。助かる者もあれば、間に合わずに亡くなる者もいる。瓦礫が取り去られると、再び建設の図面が描かれる。穴が掘られて柱が埋められ、柱から伸びる鉄筋を元にして鉄筋工が鉄筋を組み、型枠大工が型枠を張って、ポンプ屋が生コンを流し入れる。
弾薬を生産する軍需産業や建設関係の企業は儲かるだろう。しかし庶民は戦争のたびに確実に貧しくなっていく。オリンピックの開催地がオリンピック後に、以前にも増して貧しくなるのと同じ図式である。
懲役の中でも最も厳しいとされているのは、一日中穴を掘らせ、次の日にその穴を埋めさせ、そして次の日に再び穴を掘らせて、次の日に埋めさせる、それを繰り返させることだそうだ。変化も進歩もない生活は、人の精神を蝕む。
生と死が表裏の関係であるように、建設と破壊も同じ現象の表と裏なのかもしれない。しかし人間には今日と違う明日、ここではない別の場所が必要だ。もし物理的な変化が叶わないなら、ひとり精神世界の中で変化していくしかない。壁を睨み続けた達磨のように。
作品の印象は静かな怒り、あるいは静かな悲しみである。建設現場のハンマーの音は、ときに子守唄のように、ときに過去を思い出す引き金のように響く。瓦礫の下で味わったセメントの味は、父親との別離のにおいであり、絶望の味だ。世界の何処かでビルが壊され、世界の何処かでビルが建てられている。繰り返される悲しみの果て、いつか最後の人間が息絶える。