三無主義

 ~ディスパレートな日々~   耶馬英彦

映画「Taste of Cement」(邦題「セメントの記憶」)

2019年04月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Taste of Cement」(邦題「セメントの記憶」)を観た。
 https://www.sunny-film.com/cementkioku

 ビルの建設現場で生コン打設のアルバイトをしたことがある。生コンは型枠の中に流し込む。鉄筋屋が鉄筋を組み、その周りを型枠大工が型枠で囲い、鉄筋と型枠の状態を現場監督が確認したら、生コン打設となる。ポンプ屋が来て、ミキサー車が来る。ポンプ屋のポンプにミキサー車から生コンを流し込み、ポンプでビルの上まで送る。ホースの先のロープを引いて、生コンを流し込む場所を移動していく。作業員が待ち構えて、スラブ(階を隔てる天井と床を兼ねたもの)の生コンはトンボで均し、壁の中の生コンは空気を出すのにバイブレータを入れて撹拌する。
 ある日、生コンを間違って素手で触ってしまい、手が荒れてしばらく治らなかったことがある。ほぼ一皮剥けて、漸く元に戻った。生コン打設は危険で大変な作業だが、早い時間に終了するので人気の現場だった。
 生コン打設から2週間ほど間を開けて、型枠を解体する作業になる。生コンがちゃんと乾き切っていれば、スラブが落ちることはない。その間にもさらに上の階の鉄筋組みや型枠張りが行なわれ、再び生コン打ちとなる。これを繰り返して最上階までが終わると、鉄筋工も型枠大工も解体工もお役御免となり、次の現場へ向かう。誰も無口で淡々としているが、一つの現場が終わると、それなりの感慨がある。打ち上げの飲み会で現場でのエピソードが披露され、笑いが起こる。日本は平和だ。

 平和でない国の建設も同じように行なわれるが、折角造ったビルが、戦争によって壊されてしまう。ビルは忽ち凶器と化して、人々の上にのしかかり、生き埋めにする。どこからやって来たのか、沢山の人々が集まり、生き埋めになった人々を助けようとする。助かる者もあれば、間に合わずに亡くなる者もいる。瓦礫が取り去られると、再び建設の図面が描かれる。穴が掘られて柱が埋められ、柱から伸びる鉄筋を元にして鉄筋工が鉄筋を組み、型枠大工が型枠を張って、ポンプ屋が生コンを流し入れる。
 弾薬を生産する軍需産業や建設関係の企業は儲かるだろう。しかし庶民は戦争のたびに確実に貧しくなっていく。オリンピックの開催地がオリンピック後に、以前にも増して貧しくなるのと同じ図式である。
 懲役の中でも最も厳しいとされているのは、一日中穴を掘らせ、次の日にその穴を埋めさせ、そして次の日に再び穴を掘らせて、次の日に埋めさせる、それを繰り返させることだそうだ。変化も進歩もない生活は、人の精神を蝕む。
 生と死が表裏の関係であるように、建設と破壊も同じ現象の表と裏なのかもしれない。しかし人間には今日と違う明日、ここではない別の場所が必要だ。もし物理的な変化が叶わないなら、ひとり精神世界の中で変化していくしかない。壁を睨み続けた達磨のように。

 作品の印象は静かな怒り、あるいは静かな悲しみである。建設現場のハンマーの音は、ときに子守唄のように、ときに過去を思い出す引き金のように響く。瓦礫の下で味わったセメントの味は、父親との別離のにおいであり、絶望の味だ。世界の何処かでビルが壊され、世界の何処かでビルが建てられている。繰り返される悲しみの果て、いつか最後の人間が息絶える。


映画「Lean on Pete」(邦題「荒野にて」)

2019年04月30日 | 映画・舞台・コンサート

 映画「Lean on Pete」(邦題「荒野にて」)を観た。
 https://gaga.ne.jp/kouya/

 アメリカの田舎は日本の田舎よりもずっと田舎である。自動車がないと不便なところは同じだが、田舎でもバスが走っている日本と違って、広大な土地のアメリカでは自動車がないと本当にどこにも行けない。西部劇では馬を駆って走っている。かつては馬車も大活躍したが、今では自動車だ。
 馬に乗っていた名残は競馬の形で残っていて、趣味としての乗馬も盛んである。競馬も大人気だ。現代の日本の競馬の主流血統であるヘイルトゥリーズン系のサンデーサイレンスは、アメリカの三冠レースであるケンタッキーダービーの勝ち馬である。
 アメリカにはサラブレッドが走る競馬だけではなく、一回り小柄なクォーターホースによる短距離レースもある。本作品の原題になっている「Lean on Pete」はクォーターホースの競走馬で、父親と二人暮らしの素直な少年と関わることになる。

 本作品の舞台はポートランド。時代はというと、スマホを持っているのがお金持ち風の人たちだったことから、普及率の変遷を考えると舞台はおそらく2010年ころだ。いろいろあって父親と二人暮らしをしている16歳の主人公チャーリーは、馬の世話をして賃金を得るようになったが、ある事情が発生したため、馬を連れて旅に出る。
 行き先はワイオミングの伯母さんのところだ。かなり前の記憶だけが頼りである。ポートランドからララミーまでは1800km以上ある。日本で言えば鹿児島から札幌までくらいだ。16歳の少年とクォーターホースにとっては果てしない道のりである。行き着いたとしても伯母さんに会えるかどうかはわからない。半端ではない勇気で少年は邁進する。16年という少ない人生経験ながら、善でも悪でも持てる力のすべてを発揮して、少年はピートとともに前に進む。
 映画は必ずしも主人公の味方ではない。つまりリアリズムである。人間は食うに困れば何でもする。それを咎める者もいれば許す者もいる。長い旅の中で、少年は極限状況を次々に経験しながら、急速に大人になっていく。しかし魂のエクササイズはそれに追いつかない。なんとかなるという空元気と心細い本音、人を信じる気持ちと信じられない気持ちの間で揺れながら、少年は前に前にと進んでいく。それしか彼の生きる道はないからだ。
 少年が主人公ではあるが、少年の旅に寄り添っているうちに、自分の半生を追体験したような気になる。少年の旅は少年だけでなく、世の人の人生そのものだったのだ。ラストシーンでは少年の魂がようやく落ち着いて、不安と恐怖と、それに悪い心を洗い流すようだ。素晴らしいシーンである。人生を力強く肯定する世界観に爽やかな感動を覚えた。