映画「告白コンフェッション」を観た。
罪を告白された側の恐怖に特化したホラーアクションで、格闘に慣れていない一般人の登場人物同士としては、リアリティがあって割と面白かった。急転直下の終盤も悪くない。親友同士だから、アクションの最中にも会話がある。会話の進行によって徐々に立場や関係性が変化していくところもいい。生田斗真は上手い。
人間はどうしてなのか、後ろめたいことを親しい人に告白する場合がある。誰にも言わないでくれとか、ここだけの話とか、そういった前置きをつけて話すこともある。言われた側としては、誰にも言ってほしくないことならそもそも話すなよと言いたいのだが、それを言うと関係性が壊れるおそれがあるから、つい、わかったと言って聞いてしまう。
告白というのは、ある種の独善であり、強制かもしれない。告白された側は、それから先、死ぬまで重荷を背負うことになる。迷惑な話だ。
本当に誰にも言いたくないことは、大人だったら、ひとつやふたつはあるだろう。当方にもある。事実もあるが、事実以外もある。秘めた狂気であったり、コンプレックスだったり、倒錯的な妄想だったりする。誰にも話さないし、話したくもない。
筒井康隆の「熊ノ木本線」という小説では、正しい歌詞を歌うと凶事が起きるとされている「熊ノ木節」を、歌詞を変えて歌って笑い転げるというシーンが登場する。
人間は誰にも話せないことを、形式や内容を変えて表現することがある。ときとしてそれは映画になったり小説になったりする。行間を読んだり、語られない台詞を見透したりすることで、人生の本質に触れることがある。
本作品とはあまり関係がないが、告白というキーワードから、ちょっと考察してみた。告白することは、告白しないことなのだ。