ブックカバーチャレンジ10冊目
(表紙の写真は著作権に抵触する恐れがあるため載せていません。)
『天界と地獄』
イマヌエル・スエデンボルグ 著
柳瀬芳意 訳
静思社
昭和37年8月10日初版
サドでキリスト教についてネガティブに触れたので、この本を紹介してバランスをとりたいと思った。
皆さんご存知のイマニュエル・スエーデンボルグの本だ。
キリスト教にはスエデンボルグ派というのがあるらしい。あのヘレンケラーもそうだったようだ。僕がキリスト教徒なら、スエデンボルグ派に間違いない。
前にも書いたが、僕は3歳の頃から近くの教会の日曜学校に通っていた。その教会はプロテスタントのアッセンブリー・オブ・ゴッドという派閥の教会だった。クリスマスには長い台詞を覚えて、キリスト誕生の演劇をさせられたりしていた。ヨブ記を要約した作文を書いて日曜学校の先生に見せたら、すごく驚かれて、アッセンブリー・オブ・ゴッドの機関紙に載せてくれたことがあった。あんなに長いヨブ記を、こんなに簡潔に要約するなんて大人にでもできないと、機関紙の編集長が驚いて、載せてくださったと先生に言われた。後日、銀座にあるキリスト教関係のグッズが売られているお店に連れていかれて、コインのセットをプレゼントしていただいた。子供心にとても嬉しかった。
その頃は、毎日曜日に教会に通い、神がまるで身近にいるような感覚で、全てが光輝いていた。
でも、小学校に通うようになり、学年が上がるにつれて、だんだんとその光が弱くなっていって、不幸せになっていった。その感覚(光がだんだん消えていった感覚)は今でもはっきりと覚えている。
小学校四年生になる頃は、その光がほとんど見えなくなって、なんでこんな人生を生きているのだろうと疑問を持つようになった。そして心にぽっかりと空いたその空虚な穴を埋めるために、友達を教会に誘ったりしたが、誰も僕の言うことを理解できなかった。学校から帰って遊んだり勉強したりするだけではない、もっと大切なことがあるんだよ。僕の親友にさえも理解してもらえなかった。だから、誰も教会には来てくれなかった。
キリスト教って、いったいどんな宗教なのだろう。今ではまったくよく分からなくなっている。ただ一つだけ言えることはとっても単純なことだ。スエデンボルグの本に書かれている“天界の太陽”。この太陽の光を信じること(信頼すること)が、本来のキリスト教なのではないか。幼い子供の頃は、この光をいつも身近に感じていた。その暖かくて明るい光。
キリストが神の一人子だとか、父と子と聖霊の三位一体だとか、キリストが十字架に架かって全ての罪を贖ったとかいう話しは、キリスト教会が作ったドグマであって本来はどうでもいいことだと思う。だから僕のキリスト教は、スエデンボルグ派なのだと今では思っている。
静思社から、スエデンボルグの本が何十冊も出版されていた。僕は3年くらいどこかに籠もって、これらの本を全部読んでみたい衝動に駆られたが、そんな贅沢をする時間は、貧乏人の自分には持てなかった。
スエデンボルグの世界に浸ることは、僕にとっては至福の時間に違いない。
静思社の住所を訪ねたことがあったが、勇気がなくて、ドアを叩くことができなかった。翻訳者の柳瀬さんに、一度でもお会いしてみたかった。