良寛さんの言葉に
「病む時節は病むがよく御座候」
ということがあります。
また、
お釈迦さまは人間のあり方を
病人だと捉えられました。
元気にしているけど、
苦悩という形で病んでいると、
宗教のなかでも
私たち人間を病人と捉えた
宗教はないように思います。
生老病死とあるように
老いていくということは
その横には必ず病気になるという
不安がつきもののようです。
病気ということも考えようで
講義の中では、
「病人になったというときに、
病人とは情けないから
早く治りたいというんですけど、
しかし病気するときには
病気しとるのが一番いい。
病気するという義務がある。
そうしてみると、
情けないということは
いらんことなんだ。
ああ情けないというのは煩悩
したがって、
これは情けないということを
考えることで情けなくなるんです
病気しとるのはなにも
情けないことではない。
だからそういうとき、
今病気しているときには
病気を治すということが
自分の使命だ。
そうしてみるとそこに
病気を逃げ出そうとせん。
そこに病気を超えた広い世界を
見いだしてくる。
病気でなければ
分からんような世界を。
健康だったらこんな世界には
気がつかなんだろうと、
病気したおかげで
独自な大きな世界を見出したと。
これはぴんぴん健康になるよりも
うらやましいことじゃないか。」
安田先生も肺を患い
十地経講義も一時中断しました
それまでは二日に渡り
講義が続けられました。
夜は皆でおでんの鍋を囲み
お酒も入りいろいろな話に
花が咲いたり
講義についての論争がおこったり
特に三浦先生を横に据えて
膝を叩きながら
こんこんと話されていました。
この言葉も、
先生が病気されてそこで会得された
実感のこもった話です。
さらに続けて、
「人間は皆各々大きな世界を
背負うとるんですけど、
見つからんのです。
不平不満で他に探しとるんだ、
困らん世界を。
困るのはなにも困らしとる
わけじゃない。
困らせるものなくして
自ら困ってっている。
それだから非常に惨めなんだ。
貧乏なのが不幸なんじゃない
貧乏ということを恨んどるのが
一層不幸なんだ。
不幸じゃない、不幸以上なんだ。
悲惨でしょう。
不幸というのは別に悲惨じゃない
そういう点で、
世界というものに一つの新しい
意味を見出してくるというのが
穢土を荘厳するという意味です。
それから、
穢土を通して今度は
浄土を荘厳すると。
穢土で浄土を荘厳するんだ。
浄土で浄土を荘厳するんじゃない
んだ。
穢土で生きとるというのは
ただ苦しんどる
というだけじゃない。
我々が穢土に生きとる
ということは、
浄土を荘厳するという
貴重な意味を持っている。」
なかなか面白い
我々が苦しい苦しいと思っている
この世界がかえって
浄土を荘厳する種になるという
もっと言えば
苦しい世界が無ければ
浄土ということは成り立たない
ということなのでしょう。
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