最近というよりずっと気になる言葉
「流」というこです。
いろいろな試合を見ていても
「流が変わった」とか
「流れをひきよせる」
ということを耳にします。
この「流」という字
仏教でも「法流」とか
唯識の経文には
「恒転如暴流」(ごうてんにょぼる)
恒に転ずること暴流のごとし
と出てきます。
それから、修行の段階を表す
預流(よる)、一来(いちらい)
不還(ふげん)、阿羅漢(あらかん)
という四つの位の中で
最初に出てくる言葉が
「預流」、という流に預かるという。
預流、
今まで自分なりに
いろいろしていたことが
無力に感じ
その時、教えを聞き
「そうだったのか!!」と
心から頷くことができ
その教えの中に
身を投じていくことができる。
自分でいろいろせずとも
自然に教えの流れに預けられ
その流れに預かる
それが教えを聞く第一歩
ということではないでしょうか。
また、流れも
「水に流す」ということもあります。
反対に
「その場の空気に逆らえなかった」
ということもあり、
流や空気でとても大事なことを
表すようでもあります。
面白い言葉に
「流石」(りゅうせき)と書いて
「さすが」と読む、
これには中国の故事があるようです
「枕流漱石」
(流れに枕し、石にくちすすぐ)
本当は、
「沈石漱流」
「石に枕し、流れにくちすすぐ」
というところを
流に枕するのは耳を洗うため
石に口すすぐのは歯を磨くため
とこじつけて、うまく言い逃れた
という故事からきているようです。
そこから、
うまく言い抜けたということで
「流石」を「さすが」とよぶようになった
ということのようです。
流に掉さすということも
ありますが、
本当の教えの流れに
心から自分の身を預けることができる
そういう事にふれることが
教えを聞く極意かもしれません。
無理せずとも身を運んでくれる
そういう流れに預かりたいものです
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