十地経講義の中にこういう一文
に出会いました。
「言葉に感動することから始まる。
あるいは、感動するまで
言葉を繰り返し読むということ
それが一番大事です。
理屈をやめて聞くんです。
そして言葉の感動 … 。
だから、知るというのはね、
聞くといういうことです。
聞(もん)ね。
つまり言葉をして言葉を
語らしめるんです。
こっちの頭でいろおうとせずに、
考えをやめて無になって聞く。
己を空しうして聞くという、
己を空しうして言葉そのものになる
それが三昧なんだ。
耳で聞くんだけど、
全身が耳になったら、
それが三昧なんだ。…」
と続いていくのですが、
この講義を初めて聞いたのが
大学1年生のころ
初めて聞く言葉に何のことやら
さっぱりわからず、
けど、全くわからないかと言えば
わからんでもない、
ちょっとした言葉の端端に
ハッとする言葉や
心に響いてくる言葉、
その言葉に感動しつつ
まだいまだに感動しつつ読み
そして書き写しと
いまだに続いています。
有難いことに?
頭が悪くすぐ忘れる
ですから同じ所をまた読んでも
忘れているのでまた感動する。
憶念不忘といって
心に深く念じ忘れないということが
肝心なのですが、
まあ、忘れるということも
今の
自分にはいいことかもしれません。
不思議なことに
老人ホームでのお説教
何を話してよいやらまとまらず
いつも、ホームの駐車場で
持参した十地経講義を
開いた所を数ページ読む、
この講義を話すわけでもないのです
しかし、
頭が整理されてくるのです。
この本はなんというか
三昧に引きずり込んでくれる
そういう力を持っているようです。
今頃やっと
最初から書き写していると
その流れが少しわかってくる
すると講義は
驚くほど繰り返し繰り返し
話が進んでいないのです。
この十地経という経典
その原始林を切り開くかのように
行きつ戻りつしながら
講義が展開して行きます。
先生ご自身が感動するまで
繰り返し繰り返し読んでおられる
自分が自分に感動しながら
読んでおられることが
よく分かります。
私たちはその感動された滴に
また感動しているのです。
随分薄まっていると思いますが
それでもいいのです。
たぶん生きているうちには
全部書き写せるでしょう。
そうしたらどうするか
また、第1巻から書き写していく
すると、また新たな発見も
あるかもしれません。
以前、講義の資料として
それまで使っていた大正蔵経が
字が小さくて見にくく
確か卍蔵経でしたか??
活字も大きく
それも手で彫ったような文字
安田先生も感動されて
また最初から読みなおそうか!
と言っておられました。
世の中には
色々本は沢山ありますけれども
やはり、
自分が感動した本を
読み続けるというのも
いいものではないでしょうか。
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