真理ということは
覆われてあるということが
いわれていますが
自分の目で見ようとしても
見つからない
ということがあったのですが
講義はさらに進んで、
真理ということについて
次のように出てきます
「十地の智、
十地のなしとる智慧という
ものは、
ある意味からいうと
偉い専門家の、学者の認識
という具合にも考えられる
けど、
ある意味からいうと、
誰でも持っとるもの
という意味だ。
真理、我々が真理を、
真理というものは誰かに
あるものじゃない。
誰にでもいつでもあるもの
だと。
ただ隠してあるんだと。
知らずに持っとるもんだと。
人間というものは
真理というものをですね、
知らんという形で
持っとるんだ。
ないんじゃない。
自分に持っとる真理という
ものを持っとる
ということを忘れて
外に捜すという。
その時に迷いというものが
出てくる。
自分に持っとる真理を忘れて
外に探す。
それがさっきいったように
真理をつかもうということが
かえって真理から遠ざかる。」
このことを読みながら
思い出したのは
弘法大師の著作に
『般若心経秘鍵』
というものがあります
ここでは秘密の鍵です
『秘蔵宝鑰』の場合は
鑰という鍵を使って
おられます。
その中に有名な一句で
「夫れ仏法は遥かに非ずして
心中にして即ち近し
真如他に非ずして
身を捨てて何んか求めん
迷悟我に在れば
則ち発心すれば
即ち到る」
と続いていくのですが
同じように仏法(真理)は
なにも遠くにあるのではなく
自分自身の中にあるのだと
「身を捨てて」
ということが鍵で
普通は、身を捨てずして
仏法を求めようとするのです
ここに弘法大師は
『十住心論』でその道程の
修行ということを
述べておられるのでは
ないでしょうか。
『十地経』では
十地という段階の修行
自分の今までの考えを対治して
その対治の段階が十という
ことになるのでしょう。
よく、
自分探しの旅に出る
ということを言う人が
いますが、
その時点ですでに
自分から遠ざかっている
のではないでしょうか
本当の自分というものは
外にあるのではなく
自分自身にあるということ
なのですから。
十地経を読みながら
ふと
このことが浮かんだのですが
やはり同じことを言っている
ようですね。
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