友という言葉も
「友」もあれば「朋」も
あります
厳密には、
「友」は志を同じくする
同志の意味で、
「朋」は同門のともを
いうようです
まあ師を同じくする学友
また、一緒に使って朋友
ともいいます。
「古い友達があって、
そういう人と会うのは、
朋有り遠方より来る
という、ああいう言葉が
すぐいえるんです。
つまり気候の話もし、
政治の話もするけどすぐ
中心問題に触れる。
世間話せんわけじゃない。
けど世間話からすぐ世間を
超えた話にすぐ入れる。
なにも予告いらんのです。
そういう友達が本当の友達
というものじゃないか。
それでないのはね、
用事しか持ってこんね、
僕のところへ来るのに。
用件やね。
ちょっと会をたのむとか。
そういうような用事しか
持ってこんです。
つまりそういう時には、
そういう用事で人が交わる
という場合には
対話じゃないわ。
つまり人間はおるけど
対話せん。
人間と人間とが対話せん
ですね。
そして忙しいんだ。
来た瞬間にはや、
帰る格好しとるんだ。
長いことおるとえらい面倒
な話が出てくる。
面白いね、あれは。
よう分かるんや、え。
けど
その宗教問題というのは
時間ありゃせんわ。
一日おろうが、
ゆうゆうとしておれるんだ
そういう問題を話す人
というのがないんですよね
だんだん。」
よく分かる話です。
盆暮れに三浦先生に挨拶へ
お邪魔するのですが、
用件だけちゃっちゃと
済まして後は他の用事を
と思っているのですが
「まあ、上がれ、
ゆっくりしていったらええ
昼にはうどんでも作る」
内心、
「えらいことになったな
これは長くなるぞ」
と思っているのですが
やはり、世間話から
積もる話もあり、
その話が興に任せて
ついつい長くなり
先生のお宅だけで時間を
過ごしてしまい、
ということがありました。
今思えば
何と豊かな時間を過ごして
いたのでしょう。
やはり一番寂しいのは
そういう話しをする人が
いなくなってくる
ということです。
やはり、中心には
こういう『十地経』の講義
を聞いてきたという
そういう朋です
それがないと
世間話がどんどん膨らみ
帰るところをなくして
しまい、終わってみると
空しい時間が過ぎて
しまったという思いです。
どんな人でもいい
話せる友をもつということ
が何よりも大切なことだと
思います。
利害関係とか利用関係とか
抜きに静かに人生を語る友
それが人生の宝のような
気がします
三宝という、仏・法・僧の
僧というサンガ(僧伽)
ここが何より大切なところ
のようですね。
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