今月まで自粛ということで
2月のお不動さまにも
お参りできませんでした。
ところが、
『十地経』でも
初歓喜地と第八不動地が
面白いというか大事なところで
ちょうど読んでいる所も
不動地です。
先生の講義も進まなくて
繰り返し繰り返しというように
行きつ戻りつしながら
展開していきます。
第65講が昭和53年5月30日
そして、
第68講が昭和53年11月25日
ですが
「もう一遍読んでみましょう。」
と同じところから始まっています
聞く私たちには
半年余りたっていると
とても新鮮に聞こえるのです。
しかし、
経典を読むというのは
こういうように同じところを
繰り返しているように
思うのですが
ドリルと同じで繰り返しながら
深めていくということが
お経の読み方でしょう。
「経に曰く、一切法本来無生、
無成、無相、不失、無蓋、不行
なるに入る」
と、
無とか不という否定的な言葉が
重なって出てきます。
全てを否定しているような
ここのところを
「仏教の論で非常に目立つのは
ギリシャの論と違うのは、
否定が否定でもってなんかね、
真相を、ものの真相を
明らかにしようとしていること
です。
真なるものを否定で表そうとする
こういうことが非常に
目立ってます。」
このように述べておられます。
『般若心経』でも
やたらと否定的な言葉が続きます
空の相は、不生・不滅・不垢
不浄・不増・不減と出てきて
続けて
無色・無受想行識と
色受想行識という五蘊の否定
無眼耳鼻舌身意という
眼耳鼻舌身意の六根の否定
さらに、
無色声香味触法の六境をも
否定して、
見ているとずっと否定の無
という言葉が連なっています
その結論は
究竟涅槃を尽くすという
ことでしょう。
その真なる涅槃を表すために
私たちの見るもの聞くもの
考えること全てを
否定しているのです。
講義では第八不動地について
その不動ということは
詳しくは発展しないのですが
ただ、
「この無生法忍ということは
不動ということを明らかにする
無生法忍によって初めて不動と
いうことが成り立つ」
というように述べておられます。
無生の法を認識する
そのことによって
不動ということを明らかに
しているということでしょう。
不動ということも
「不動院」というお寺もあれば
「無動寺」というお寺もあります
この場合の否定語は
「不」もあるし「無」も使います
この使い分けも見てみると
面白いことが分かるのでは
ないかと思うのですが…。
しかし、講義も
繰り返しているようで
繰り返しながら進んでいる
その内容はまた違ったものに
なって展開していきます。
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