分段生死(ぶんだんしょうじ)
変易生死(へんにゃくしょうじ)
解ったようでわからない
ずっと気になている言葉です。
「生死」と書いて
普通には「せいし」と読み
仏教では「しょうじ」と読みます
インドの言葉ではサンスカーラ
輪廻とも訳します。
生まれかわり死にかわりして
迷いの中にいるということで
生死とは迷いをあらわします。
それに対する言葉は「涅槃」です
分段生死というと、
つい、分断ということが頭に浮かび
切れ切れになった
ということをおもいますが
分段となると、
限られたとか限定される
というような意味があります。
普通に生まれるとは
限られた環境や限られた命の中に
生きて行くのです
寿命も限りあり姿かたちも限定され
そういう身をもって
迷いの中に生きて行くということが
分段生死だというのです。
『十地経講義』のなかでは
「煩悩や業を縁として、生まれ
業によって三界に生れ、
業を果たして死んで行く。
だから頓死ということはない。
死にたくても業がある限り
死ぬことはできない。
業にこたえて、前の世の、
作った業にこたえて
我々は生まれてきた。
そしてその業を果たして
初めて死ぬことができる。」
というように出てきます。
変易生死ですが
どうも辞書を見ても
しっくりこない
学術的意味はそうかもしれませんが
どうもわからない?
ふと感じたのは
先日、興味があって
潜伏キリシタンを訪ねて平戸の
生月島(いきつきしま)へ
口伝えに残っている「オラショ」
を聞きたかったのです。
博物館の中で流れているオラショ
どこか、ご詠歌というか和讃に似た
響きをもている。
その歴史を見ていくと
それこそ殉教に生きた人々の姿が
あります。
信仰の為には命を捧げても悔いない
ということです。
「迷いの中にある分段生死が
願を以て包むと変易して
変易生死になる。
生れさせられ、死なせさせられ、
仕方なしに、
そういうのを、今度はあえて
願生しようと。
あえてそれを背負って立つ時に
意味は変わってくる。
喜んで死ぬんだ、自由に。
仕方なしにのやつがですね、
自由意思で生死するでしょう。
つまり必然を自由に転じている。
そういう時に生死の意味は
変ってくるでしょう。」
と、『十地経講義』は続きますが
先日のNHK大河ドラマ「西郷どん」
のなかで、
いよいよ篤姫が徳川将軍に嫁ぐ
ということが決まったとき
「喜んで不幸になります!」
と、篤姫が答えます。
その時、
今まで生きてきた分段生死が
変易生死に変わったのでしょう。
あえて、不幸の中に身を投じます
という覚悟が決まったのです。
ただ漫然と生きてきた命に
悔いのない道が見つかった。
そういうことを変易生死と
いうのではないかと思うのです。
「つまり生死が、
実は生死というものが
ただ生死だけの意味じゃない。
穢土を荘厳するというような
意味をもってくるでしょう。」
潜伏キリシタンも篤姫も
普通の生活が
命をかける場を見出した時
いのちの意味が変ってくる
喜んで命を捨てよう
神のために命を捧げても悔いない
というように
一面から見ると(普通の考え)
不幸で悲惨な出来事も
(仏の目から見ると)
悔いのない人生が見つかった
そのことによって、
その人の人生が清められた
荘厳された、ということになると
それこそ本当の人生を生きた
ということになるのでしょう。
変易生死、ということは
迷いの生死の意味が
変ってくる
そこに大きな意味があると思います。
まだまだ不十分な理解かも
しれませんが、
潜伏キリシタンの里を訪ねて
そういうことが
ふと、心に感じたのです。
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