「 除夜の鐘 」 31日から元旦にかけて
「 108 」 回 、鐘が撞かれます。
『 108 』 という煩悩の数だけ、
一年間の自分の煩悩を滅する、意味で撞かれるのでしょう。
「 百八の煩悩 」
この 「 108 」 という数は何の根拠からでしょうか ?
一般には煩悩の数がたくさんあるということで、
108 になった、とも聞きます。
けど、そんな単純な話ではないはずです。
暮れから、気になって見直していたのですが、
「 煩悩 」 と簡単に言ってますが、
「 自分を煩い悩ますもの 」 ということです。
それが 『 108 』 もある、
そのことを発見したということは、
今のようにコンピューターもない時代に
よくぞそこまで分析したということは
世界的な一大発見でしょう。
簡単に、
煩悩には 一番主になる 『 根本煩悩 』 ということがあって、
その 「 根本煩悩 」 を取り巻く、周辺の煩悩、
つまり、根本煩悩に随って起こってくる煩悩
『 随煩悩 』 ( ずいぼんのう ) というのがあります。
数でいうと、
「 根本煩悩 」 が 6
「 随煩悩 」 が20
です。
「 根本煩悩 」 とは、
『 貪 』 ( とん )
『 瞋 』 ( じん )
『 痴 』 ( ち )
『 慢 』 ( まん )
『 疑 』 ( ぎ )
『 悪見 』 ( あっけん )
の六つです。
少しだけですが、
『 貪 』 ということは、 「 むさぼり 」 ということです。
「 貪欲 」 という言い方をします。
「 貪 」 がなぜ、自分たちを苦しめるのか
ということを、お経ではこのように説明しています。
『 謂く、愛の力に由って取蘊生ずるが故に。』
「 愛 」 ということは、
西洋では 「 神の愛 」 という アガペー と
一番大切なことですが、
仏教では 「 貪愛 」 というように煩悩の一つになります。
「 貪 」 の初めの方を 「 愛 」 というのです。
あったほうがいいな ~ 、 と思う。
欲しいな ~ 、と思う。
こういう感情が 「 愛 」 ということです。
それが、それだけでは終わらなくなって、
あったほうが本当にいいな、 となってきます。
その感情か固まってきます。
欲しいという感情が深まってくる、
その 「 愛 」 が固まってきたことを 「 取 」 ( しゅ )
「 貪 」 が発展してきた、 それを 『 愛取 』 といいます。
そして、
どうしても欲しいと思ったものを手に入れようと
手段を弄する。
それを今度は 「 有 」 ( う ) いうように見ていくわけです。
そのように 「 愛 」 がさらに深まっていく、
愛 → 取 → 有
だから、煩悩ということは一つの名詞と考えるより
人間の心の状態ですから、
その心は次々と変化していくわけです。
その変化していく心の姿をじっと見据えて
分析していったのが 『 百八煩悩 』 といようになったのです。
だから、108という数はただ多いというわけではなく、
それは一つ一つの煩悩があるわけで、
その発展していく過程を 108 と見たのです。
厳密には、お釈迦さまの教えは 「 八万四千の法門 」
といわれていますので、84000の煩悩があるわけです。
それほど人間の心は複雑怪奇ということでしょう。
しかし、84000では尽くせず、
何とも彼とも言ってみようがない煩悩もあるようで、
昔のお祖師様は 「 蛇蝎に同じ 」 というように
蛇やさそりにたとえられています。
そのような煩悩はもう名前のつけようがないので、
譬えでいうより仕方がない、ということでしょう。
私たちは、よくよく見てみると
自分でもぞっとするような煩悩を抱えているわけです。
お釈迦さまは、自分にある煩悩を
嫌になることなく、じっと見続け、分析してこられた
その根性には驚くばかりです。
( 嫌になってしまったら、やめてしまいそうになる
私たちの心が恥ずかしいばかりです。)
たゆまず、歩きつづけて、いかねばなりません 。 !!!
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