「財及び身勝因事」
というところで昨日は
財及び身の勝れたる因の事
というところから、
随って財及び身の勝れたる
ことを得る因の功徳を集める
そして、
「随所須意取」というように
進んできて
今度は「意取」ということが
始ります。
「それから意取というのは
何であるかというと、
意(こころ)が取るという
これは所須に随うという意味
があると共にまた
意に随って取るという意味
それは身のことだ。
思いに随ってそこに
身を置くという。
我々は、考えてみると
仕方なしにおる。
思いのままになるなら
もっといいところに
おるはずだ。
金もないし何もない
ところに、
あきらめて身を置いとる。
だから
それは意の通りじゃない。
思うがごとく生きとる
という意味です。
仕方なしに生きとるんじゃい
我々はよく考えてみると、
生きとるように考えとるけど
実相はそうじゃないので
あって、
生きとると
思っとるんであって、
実は生かされとるんだ。
生まれさせられとるんだ。
そこへおらせられとる。
おるんじゃない。
おるのなら止めてもいい。
ようやめんわ。
死ぬ時がきても
まだ生きとりたいという。
そいうかと思うと、
生きとるくせに死にたいと
いうことを考える。
そして自殺して
夜逃げしたいと、
こんなことを考える。
そういうのは皆思いであって
何と思おうと思うのは
勝手ですけど、
そこへ
自分がある時ある場所に
自分としておる
ということだけは
思い通りにならん。
思い通りにならんのを
業というんです。
業の限定だ。
私はなぜ
男に生まれてきたか、
仕方ないわ、
生まれてみたら男だった。
男に生まれようと思って
生まれてきたわけじゃない。
もっと頭が賢いようにと
思うけど
どうも仕方がない。
それ全部、
一挙手一投足が決められとる
理由は分からんが、
そういうところに
業という言葉があるんです。
何かそれは
偶然じゃないという意味です
恨むわけにもいかん。
それは運命だけど
その運命は
外からきたのじゃなく
自分が求めた運命だと。
現在かくあるのは、
かくある責任は自分にある。
こんな阿保に
生んでくれたのは
親の責任だと、
自分の責任を親に持っていく
という。
そういうことも
考えられんわけじゃないけど
考えとして。
けどそういう考え方も
成り立つ。
今の学生、高等学校の生徒が
よく言うように、
こんな悪い頭に
生んでくれたのは誰やと
いうと親に …
といわれると親も文句が
つけられん。
親の方が議論に負ける。
けどさあ、
そこにそういった時に
さっそうたる気持ちに
なるものだろうか。
議論には勝ったけど
何か銭が足らんような
気がする。
議論するのは勝手ですけど、
自分が落ち着かんじゃないか
話しはそこなのです。
仕方がないというのも
落ち着かんし、
そうかといって
人に責任もっていっても
落ち着かんでしょう。
理屈は分からんけど、
落ち着くという時に
責任感というものが
あるんじゃないか。
自分の存在は
自分の責任であると、
これが一番男らしいんだ。
責任は親だというのは
卑怯な話だ。
それから、
もう仕方がないといって
あきらめとるのは
腰抜かしとることだ。
功罪共に背負うという、
そういうところに本当の…
我々の宿業を背負う
ということは
頼りないことのように
思うけど、
そうじゃない、
本当の勇者です。
そういうことができるのは
本当の意味の、
実存的勇気
ということによって
初めて自分の存在に
責任がもちうる。」
長くなりましたが
どうにも
読んでいただきたくて
全部書きました。
ある方が
「存在への勇気」
ということを仰いましたが
こういうことではないかと
思い、また
身に当てはまることなので
読んでみてください。
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