楽という言葉から
この言葉には
ねがうという意味もあり
さらに意欲というような
欲という意味もあり
そこから「愛」という言葉に
展開していきます
「哲学の方でも、
我愛・他愛ということがあります
我を愛し、他を愛すると
いうような、
それは必ずしも悪い意味じゃ
ないんでしょうけれども、
哲学の場合は。
しかし、やっぱり愛という限り
何かそこには一つの、
人間がそれによって束縛される
ような。
別に愛というものは、
何か、
悪いという意味じゃないですけど
倫理的な意味の悪という
意味じゃないですけど。
愛染アイゼンというてね
まあ、汚染ゼンマという字が
ありますけど、
悪じゃないけど、
汚すもんだというような
愛というものは人間に対して
悪というもんじゃない
だろうけども、
しかし人間を汚すようなね。
染めて汚すというような。
色彩づける。
何か人間的なものにしてしまう
という。
私の個人的な感じからみると
神の愛というけど、
神を愛するというのみならず
また神が愛するといいますね。
汝の心を尽くし、誠を尽くして
汝の神と汝の隣人を愛せよ
というような。
キリスト教の根本的な戒律に
なってますけども、
神と人とを愛せよというような
愛するという、
神を愛するという場合もあるし
また、神が愛するという
場合も、両方ありますけども、
仏教からみると、
やっぱり人間くさいんですね。
北森嘉蔵という方は
自分の神学を特色づけて、
神の痛みの神学という。
その、痛みというようなことは
仏教にはないというようなことを
いっています。
それはまあ、
仏教を知っていうのかどうか
分からんけどもですね、
だけど、ああいうとこで
個性づけようとしている。
痛みというようなね。
まあ仏教の大悲ですわ。
仏教の方では、
本当の意味の愛ということを
表す場合には、
愛という字を使わずに
悲というという字を使うでしょ。
むしろ、悲という字を使う。
悲は智慧なんです。
智慧といっても理論的なもの
ばかりが智慧じゃない。
人間というものを痛むという
ようなものも一つの智慧だ。
痛むというのも
可愛いというようなことをいって
痛んどるんじゃないです。
まあいってみれば、
無心なんです。
無心なら冷たいじゃないかと
考えるかも知らんけどですね、
それが非常に深い愛なんでしょう
知らん顔しとるというんじゃない
この、涙を流したりなんかして
痛んだりなんかしとるのは
かえって人間くさいんです。
それは痛むというけど、
本当の痛みじゃない。
やっぱり痛むというところに
人間の魅力があるというのは
人間的なんです。
人間に響くということは、
我々によく分かるということは
それだけ人間的なんです。
我々によくわかる
というんじゃなしに、
我々がなんか知らされる
というような意味ね。
そこに触れて、
未だかつて知らなかったような
私を知らされる
というようなときに、
そういう意味の智なんです、
愛というのは。」
それから講義は
智ということについて
話が展開していきます。
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